大阪のヒトって面白いですよねえ。今週の電話調査、なんばのH産婦人科の電話に出たオバちゃんの応答は秀逸でした。
「昨日? あー、それじゃあ遅いわ。すぐに来ないと。すぐに。しゃあないな、とんとんと足踏みして、な」
和むなあ。わたしが本当に緊急避妊を求めていたとしたら、とんとんやっちゃうかもしれないし。
この連載中、読者の方から送っていただいた緊急避妊のメールのなかには、文字通り翌朝に緊急避妊ピルを服用したけれど妊娠、中絶したという体験談があった。こういうお話を聞くと、あらためて避妊と中絶は地続きなんだなあと思う。
わたしたちはなぜ当たり前のように、避妊は望ましいことで、中絶は悪いことで、子殺しは最悪のことだと感じてしまうんだろう。
個人にとっては生殖をコントロールしようという、国家にとっては繁殖をコントロールしようという意思に貫かれているという点で、避妊も中絶も子殺しも「ひとつのつらなり」であると書いていたのは、荻野美穂さんだった。その一文だけで、『ジェンダー化される身体』はわたしの大切な一冊になっている。
フェミは、中絶は殺人ではないと言う。というか、中絶は殺人ではないと言ってる変わり者はフェミくらいなものだ。
プロライフの勢力や右翼とかオヤジとか母性を拠りどころに生きてる女とか純潔教育の復活を訴える山谷えり子みたいな人たちが、よってたかって「中絶は殺人だ」と騒ぎたてるから、フェミはその度に必死でそれを否定しなければならない。
何週までの胎児はヒトではないとか、産むかどうかはそれを宿している女に決める権利があるのだとか、それはプライバシーの問題だとか、人権の問題だとか、胎児は実はウンコなのだとか。大変だなあ、フェミ。
ところでわたしは20代の半ばに中絶をしたことがあって、今のところ、中絶は人殺しなんじゃないかと思っている。
といっても、赤ちゃんごめんなさいとか、一生罪を背負って生きていきますといった罪責感には乏しく、もちろん後悔しているはずもない。恵まれた環境で安全に中絶できたことを、本当に感謝している。
わたしがわたしの中絶を人殺しだと思うようになったのは、こんな空想を始めたときからだ。
もしも、わたしが孕んでいたものが、グレープフルーツだとしたら。
10ヵ月後に大きめのグレープフルーツを産み落とすことになっていたのだとしたら、わたしはけっこう喜んで、それを産んだかもしれない。
もしも、わたしが孕んでいたものが、ダチョウとかフラミンゴだとしたら。
今のマンションでは育てられないけど、実家の庭でなんとか飼えるかもしれないし、産んでみようかという気分になったかもしれない。
もしも、わたしが孕んでいたものが、イルカだとしたら。
そりゃ産みますとも。イルカのために沖縄あたりに引っ越すかも。それが無理なら水族館に預けて、毎週のように会いに行くだろう。
なぜわたしが中絶したのかといえば、つまりそれが、人間だったからだ。わたしが孕んだものが人間だったからこそ、産みたくないと思ったというわけで、人間以外のなにかであればすんなり産んだのかもしれない。
そして、ミもフタもない言い方だけど、その存在はわたしにとって不都合だったから、すっきりさっぱり、流してしまったのだ。
と開き直ってしまうと誠に清々しい。ヒトはいつからヒトなのか、なんていう線引きを必死で議論している論客には、ご苦労サマと申し上げるしかない。わたしの中絶は、客観的にはどうであれ、わたしにとって「殺人」そのものなんだから。
「殺人」と認めてしまったら、中絶は非合法になっちゃうじゃんかと思ったあなた、ご心配なく。そんなときにはきっとLPCがヤミ堕胎を担ってくれるはず。お友だち価格で安くしてね。
日々の避妊に余念のないあなたも、あわてて緊急避妊ピルを飲んだことのあるあなたも、わたしの空想をちょっと共有してみてほしい。あなたが孕むかもしれないものが、カメとかイカだとしたら、あなたはそんなに必死に避妊をするか。緊急避妊を求めて駆けずり回るのは、あなたの子宮のなかで育とうしていているそれが人間だから、ではないか。
そして万が一妊娠したとき、とんとんと足踏みしただけで、誰にも知られず、身体にもまったく負担をかけずに中絶できるのだとしたら、やっぱり足踏みしちゃいませんか。
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