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あたしも何ぞ表現活動がしたいと思てましたけど、それどころやない。何せ兄に毎晩ボコボコに殴られるんですから。たまりかねて、早稲田にいた同じ高校の先輩を頼ったりもしたんですよ。その人は、当時最先端やったアングラ劇団やってはったんです。あたしも何の役柄でもいいから芝居やらせて、と言ったら、「女はバカだから、顔がねぇ、美しくなくっちゃね」って言われて。それが早稲田のバリバリのアングラ劇団。ここでそんなんやったら、どこ行ってもあかんのかな、思いましたね。最先端だと思うてましたから。
そんなわけで、まぁ、ノイローゼになっちゃったんですわ。早稲田辞めて、家に帰り、神戸大学に行くことになりました。入学手続き、おかんが勝手にしてたんですわ。自分は早稲田にしか行く気はなかったんですが、ある朝起きたら寝起きのままおかんにタクシー乗せられて、うむも言わさず神戸大学の試験を受けさせられてたんです。中一の時「廃人になる」と言った医者が神戸大の医学部の教授。そんな大學行きたいわけがない。
そんなトラウマをわきに置いて考えても、どっちにせよ神戸大学はまったく合えへんかった。中高、女ばっかりで育ってますから、女どうしやったらギャグを言おうが、かまへんのですが、男がいるなかで、女が変わったことを言ったり、ギャグを言うのは、あかんかったんですよ。特に神戸大学はそういうところ。保守的な校風でした。
どんなカッコウしてたか? あ、ただ下駄はいとっただけですよ。顔も洗ったことなかったですね。風呂? あまりはいらへん。だって、こっちは「廃人になる」という恐怖に怯え10代の多感な時期を過ごしてましたから、それどころやなかったんです。まぁ、汚ギャルの走りですわ。ああ、自分でもうすうす、異様な雰囲気を漂わせているってことは分かってましたが、それがなんやねん!
それでも当時は、なんぞ闘争がしたい、中学の頃に団塊の世代がやってるのをテレビで観たりしてたから、どっかぶつけたかったんですね。だから大学でイタイイタイ病の支援の会にいたんですよ。ところがその会で誰1人、男があたしに口聞いてくれへん。シカトされる。それを見かねた女友だちが、同じ運動していたカレシに「なんで小林さんと口きかないの?」と聞いたそうなんです。そうしたら、「ブサイクだから」と。
あたし、デブやったんです。中一の時のショックでそれ以降、過食症にもなってたんで。当時は「摂食障害」なんていう言葉ありませんでしたから、ただデブが醜く汚く食い散らかしやがって、と言われてました。
それでも「ブサイクやから」と言った男が、「あんたみたいなのは釜ケ崎闘争に行った方がいい。その方が似合う」って言ったんです。「美醜の感覚を僕は克服できない」、と。あたしもえらいすなおに「そうかな」と思うて、釜ケ崎行ったんですよ。なんで素直に従ったか? だってハッキリと理由を述べてくれたんですもん。理由言われただけ、ましですわ。
そいで、釜ケ崎、東京で言ったら山谷みたいなところです。労働者運動、ホームレス運動。そこに行きました。行ってブスは来るな、と言われなかった初めての場所。それが釜ケ崎やった。
釜ケ崎は、女がいるというだけで貴重だったんですよ。美醜まで贅沢言わない唯一の場所。ほとんど男ばっかりですわ。拒絶されないのが嬉しくて、たむろしてた。ところがね、釜ケ崎でも裏切られた。
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●裏切り |
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ある日、労働者の方と一緒に、シュプレーヒコールあげとって、警察に向かって「イヌはイヌ小屋へ帰れ!」と闘ってたわけですわ。その時に、警察官があたしを指して「共同便所が!」と言うたんです。そうしたらデモしてるこっち側の男どもがいっせいにクスクスと笑いました。
ああ、こうなったら一緒なんや。「イヌはイヌ小屋へ」とさっきまで一緒にやってたのが、「共同便所」であっちとくっつくんや。
こんなこともありました。運動の最中、警察が年輩の労働者をものすごい殴り方で殴るんですよ。それでこそっと後ろからまわって、チンポを蹴ったんですよ。ばれんかと思ったら、ばれてもうて、ひきずりまわされた。ぐるぐると。わざわざセーターを脱がされ、上半身裸にされた。何周回ったか、覚えてませんけど、あたしにとっては永遠とも思える長い時間でしたね。
ところが、ひきまわされながら、さっきまで殴られて死にかけだと思ってた男たちの空気が伝わってくる。けっこう喜んでる。「ええもん見れとる」と。誰も助けようとしなかった。いや、怒ってさえいなかった。
それでもうあかん、と思ったんですね。こういこうとはやってられないな。女の運動せなあかん、と思って、女性解放研究会をつくったんです。当時としては画期的やったんとちゃいますか。大学でそんなサークル、なかったですもん。
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●女性解放研究会での闘い |
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女性解放研究会はあたしに「釜ケ崎に行け」と言った男の彼女と二人ではじめました。二人でいろいろやりましたよ。そうしたらまたすごかったですけどね。あたしとしてはおもしろおかしく色んなこと、おちょくりたかったんです。それなのに、女解研のヤツらはレイプしてやる、と左翼の男に言われるわけですよ。一人で歩いたらどうなるかわかってるやろな、とか。
あたしらやってたのは、ほんとにささやかなことでして。他の運動の方が、なんとか差別なんとか差別、とわーとチラシに書き連らねて「部落、障害者立ち上がろう!」みたいなこと叫んでる所に行って、「女性差別反対」とチラシに書いてよと言うてまわったんです。それがあたし達の仕事。でも絶対に書いてくれなかった。書いてくれないどころかがたがた抜かすな、という脅し。議論すらできなかったですね。「女性差別」という言葉すら言っちゃいけなかった。この世にないことになってたのです。もちろん、そういう運動の中に女もいるんですけど、これがまた、あかん。
男に攻撃されるより、そういう女からの攻撃がこたえた。「なんちゅうことをしてくれてるの」と、女が言ってくるわけです。「迷惑だから、やめて」と。田中美津の「命の女」に出会い、男にならなくても、女のまま社会を変えていくことができるんだ、とあたしは燃えていたんですけどね。
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●下ネタが仕事だった |
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歌で訴えようと考えはじめたのはその頃からですね。まだ歌は作れてなかったけど、女解研として何かアピールする時は、始めから「下ネタ」を中心にやってました。ああ、もちろん当時は下ネタなんて絶対にあかんかったですよ。保守的なとこですから、神戸は。だからわざと言うてやろうと思いましたね。敢えて言ってやろ、と。これはあたしの仕事や、と思いましたよ。
ただ座ってるだけでも嫌われるのだったら、下ネタ言って殴られた方がまだいいわ。下ネタ運動、これがあたしにとっての女性解放だというくらいの気で。決死の覚悟で下ネタ言ってましたよ。女解研のチラシでも意識的にチンポとか書いてました。それがあたしの仕事。
まず、男が中心に運動やっていることとの闘いなんですよ。そこに入ってる女との闘いでもあった。だいたいウーマンリブの人はそこからと思いますわ。一緒に闘っているのに飯炊きやれ、とかね。
女解研は相方の男関係が理由だったと思うけど、あっけなく相方が去って行って崩壊。失意のどん底で軽音楽部に入ったんですが、下ネタは歌わしてもらえん。顔も悪いから、英語の歌すら歌わしてもらえん。だったらオリジナル創って、勝手にレコード会社に送ったれと思うたんです。そうしたら、いきなりレコードデビューしちゃいました。
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●レコードデビュー |
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送ったのは「朝起きたら」をはじめとする中絶シリーズなど数曲。たぶん、キワモノだったから商品価値を持ったんでしょうね。なにぶん、男が牛耳るレコード業界ですから。この曲はね、「朝起きたら男の態度が変わってた」この一行に、男女関係の持つ権力的性格を象徴的に集約させたつもりでしてん。
男は「面白いけど、笑えない」と言うし、女は「あんたとは一緒にされたくない」という感じではありましたが、けったいな歌なので有線やラジオでよくかかりました。ところがね、二曲目の「レイプフィーリング」が、放送禁止になってしまったわけです。
この曲は、女が強姦にノーを叫ぶという歌。男の日常的発想がすでに強姦なんだよ、と、あらゆる形での強姦行為に抗議すべきだ、という考えに基づいてつくりました。若者になじみやすいディスコサウンドにして、歌詞もやわらかめにつくったのに。おかしいですね。放送禁止処分で、葬られてしまった。
放送禁止というのは、自主規制なわけです。理由もなく、消される。音楽なんて、ラジオに乗っからないと広まらないわけですから、これは事実上、発禁です。あたしの歌が猥褻だというのなら、その頃大ヒットしていた「時には娼婦のように」の方がどれほどきわどいか。
男の身勝手な欲望を歌うにはよくて、強姦するなという女のギリギリの要求は陽の目を見てもらっちゃ困ったんでしょうね。あたりさわりのない女の歌だけが氾濫することになってしまう。
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●きっかけ |
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それでもその頃から、リブが声をかけてきてくれました。リブのデモ行進で「レイプフィーリング」を使ってくれたり、リブ団体主催のライブでもよく歌いましたよ。ただ、実際に関わったリブには苦い思い出があります。よくリンチされました。ほんまですって。何でか、理由がわからへんのですわ。
「魔女集会」がありまして、そこで歌を歌ったんですが、わけのわからない糾弾を受けました。今思うと、ウーマンリブの末期症状だったんでしょうね。なぜそうなってしまうのか、知りたいと思いながらも、まともに議論ができない状態になっていた。恐怖政治の世界でした。少なくともあの頃のリブは。
歌を辞めるきっかけになったのは、大阪でウーマンリブのリーダー的な立場にいた人に頼まれてライブをやったことがあったんですけど、行ったら男ばかりやったんです。
で、歌っている途中に殴られた。「いやな男のブルース」とか「女は便所」とか、左翼の男には腹たつこといっぱいやったんでしょうね。それでも歌っている途中いきなり飛び蹴りされたもんですから。終わった後、先ほどのリブの人に「こんなことありました」と報告したんです。そうしたら、こう言われました。「それは男からの愛の鞭よ」と。
自分の中にあったリブへの思いがガラガラと崩れ落ちて行きました。男の暴力は暴力やんか。ウーマンリブが何が何だか分からなくなった。恐かった。歌えなくなってしまった。説明できないんですよ、男の暴力は愛の鞭だ、とウーマンリブのリーダーに言われる現象を。他のウーマンリブも誰一人「おかしい」と言わないわけです。分からなかった。それから10年くらいひきこもってしまいましたね。
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●10年間のひきこもり |
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歌の内容でもめたことはないんですがね、もめるネタいっぱいある歌なんやけど。あの頃は、本気で議論をする時代やったんです。議論のきっかけになれば、と歌ってました。でも、歌に関して議論ができたことはなかった。熱い思いで語りはしたけど、論理的な議論はなかなか。80年代に上野千鶴子さんらがフェミニズム言うてでてきたとき、自分はトラウマにひきずられてリブといっしょくたにしてみてしもたけど、論争の出来るフェミの人と出会ってたら、全然違う展開になってたんやろな、と今は思っています。
10年間のひきこもり。ほぼ30代をひきこもって歌を歌わず、塾の講師やらなんやらして過ごしてきたわけですが、もったいなかったって思いますよ、ほんま。でも、10年前からやっと当時のことを冷静に振り返り、あれはああいうことやったんやないかな、と整理をつけることができるようになった。だから、また歌い始めるようになったんです。特にこの3年くらいは考えが整理されてラクになってきたような気がしています。
あたし、小6の時からなぐられてきたでしょ。女、女、思い知ったか。乳をもむ。殴られる。セクハラやDVという言葉がなかった。だから「レイプフィーリング」という言葉をつくったんですよ。そういうのばっかり。一番必要な時に言葉がなかった。いつもいつもおいつかなかった。それを言いたいと思う時に、それを指す言葉がなかった。
上野千鶴子ってどんな人? 会いたいなぁ。本当に言葉を持ちたかった。もっと議論したかった。色んな話しをして、言葉を持ちたかったですなぁ。
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●シスターフッドで創られた映画 |
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10代のころ、ボーヴォワール読んだとき、「昔はひどかったが、今はまだましだ」って書いてあるんですよ。あたしの現実はすごいのに、ヒドイのに、どこがぁ、と思いましたけどね。でも、この年になると、あたしらの頃に比べたら、ええ世の中になったなぁ、と思うんですよね。バイブ売るなんて、そんなことしたら、殺されてるわ、あたしの若い頃は。え? 今も殺されるかも? 変わってへんのかなぁ。でもあなたたちみたいな人がでてきてるってことは、だいぶ変わったってことやないの? え? 少数派? んー。
おかんとはまだいい関係になっていませんね。ただ中絶の歌を作った頃、なんでかふっとおかんが中絶について話しをしたことがありました。おかんはね、兄を産んだ時に「もう、いやだ、絶対に産みたくない」と思ったそうなんですよ。安産だったそうですけどね。だから翌年に妊娠したときは迷いなく中絶した。でもその翌年にあたしを妊娠したわけです。病院に堕ろしに行ったら、医者が「これ以上中絶すると身体によくない」と言うんですって。それで渋々、あたしを産んだんでしょう。出産の際に卵管を閉じてもらったと言うてました。その出産が難産だったもので、医者に騙されたみたいな気になり、恨みを全部あたしにぶつけてきたみたいですね。
あたしにとってね、最後に残るのはブルースなんです。現実というのはあまりにもむごすぎる。背負い切れませんよね。ブルースがなかったら生きてこれなかった。ブルースがないと、現実と釣り合わない。女のおかれた状況こそ、黒人奴隷が断末魔の叫び声をあげたところからはじまったブルースで歌うべきや。あたしの思いは、ブルースしか引き合うものがなかった、というこっちゃねんな。下ネタ歌って、笑いとって、ブルースぶちかまして、歌い続けて生きたいんですわ。
インタビュー:バイブガールズ/構成:北原みのり
1980年代初頭。煮詰まり、混沌とし、前進するエネルギーを失いつつあったリブではあったが、一方で、小林さんの詩をしっかりと受け止めていた女もいたことを、最期に記しておきたい。
「初めて、まりこさんの生の歌を聴き、予想以上に感動した。というよりショックをうけたという方が正しいだろうか。(略)1人1人の女が自分自身のことばで、自分のホンネを歌い出す時、この社会は大きく動き始めるだろう。あたしたちは、第二、第三の小林まりこにならねばならない。それぞれの場で、それぞれの想いをこめて。」(京都大学女性解放研究会のチラシより/1981年/岡野史子)
「11月15日、約2ケ月ぶりに万里子さんのうたを聞いた。(略)ありのままを語るところからリブがはじまって10年。ありのままを語ることは、いまだに女を感動させている。万里子さんのうたを聴きながら、そこにリブ10年の歴史を見るおもいがして、ひとりうれしかった」(『女から女たちへ』1980)
リブ末期。小林さんが言うように、たしかにリブは方向を見失い、内部の分裂が激しく起きていたのだろう。それでも上述の女たちのように、小林さんの歌・歌詞を「手にした」者もいる。京都大学の学生だった岡野さんはこうも記している。
「今年になってマスコミがやけにまりこさんをとりあげている。表面上は『女の時代』とかいってもてはやしているが、その背後には圧倒的に男優勢の社会において、『まぁ、あの程度の女のたわ言は許してやろうじゃないか』という男の傲慢が感じられてならない。(略)まりこさんの歌は、マスコミの手など借りずに、女自身の手で女たちへ伝えなければならない」
小林万里子さんを私に紹介してくれたのは、当時リブ運動に関わっていた女性だった。「とても面白い人がいたんだよ。集会に来た時に色々もめてしまって、いつのまにかいなくなってしまったのだけど」その女性は20年間大切にしていたカセットテープを私にくれた。連絡先がなかなか分からない小林さんの電話番号を教えてくれたのも、やはり女性運動をしている人だった。「知り合いのツテで探してもらったよ」 小林万里子さんの歌を忘れない女たちが、私を小林さんに引き合わせてくれたのだと思う。
小林さんのファーストアルバムは、ケンロードミュージックのwebで買えます。
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