ある日、急にふと「家族」が欲しくなった。思いつきで同居人(女)に提案する。
「私、家族がほしい。家族になってくれる?」
すると彼女は え? という表情で、顔を赤らめた。
「それって・・・プロポーズ?」
は? と私がたじろぐ。家族になるって、結婚する、っていう意味なの? そうだっけ? 彼女はふざけるようにカラダをくねくねさせて言う。
「こんなプロポーズはイヤ。私、フォアグラとか食べながらプロポーズされたい」
どうでもよくなってきたので。
「はい。これがプロポーズです。結婚してください」
と言ってみた。
「はい。喜んで」
と言われた。
というわけで、私、結婚しました・・・(笑)。
しかし。それにしても「家族」。
家族が急に欲しくなったのには、いくつかの理由があると思う。
最近、友だちを失う経験をした。死んだんじゃないよ、嫌われたんだよ。たぶん、また会えるまでには時間が必要だと思う。
最近、母と大喧嘩した。今もまだ気まずい。それでも、母とはきっとまたなんやかんやとやりあっていくのだという確信が私にはある。母にもきっとあると思う。
これは大分前の話だけど。妹の家に行った。ちょうど七夕のシーズンで部屋の中に飾ってある短冊に、「家族が幸せでいますように」と書いてあって、妙に哀しくなった。この「家族」には私は入っていないね。小さな疎外感。妹は新しい家族を生きている。
そして私は、同居人の前で哀しいよぉ、と吠えた。
「なんで友だちはいなくなるんだろう。なんで家族はいなくならないんだろう。なんで新しい家族は仲間はずれを作るんだろう。」
で、同居人は冷静に言う。
「家族だから。友だちだから」
どういうことだよ、それ。友だちだって、家族だって、大切な人は大切な人じゃないか。家族だって、イヤだったらつき合わないって方法だってあるし、実際そうしている人だっているでしょう。
「確かにそういう場合もあるけど。たいていはみんな家族のことで悩んでいるよ。簡単に縁が切れない関係だから苦しいんでしょう。友だちは、イヤだと思えば会わないですんでしまうから」
で。冒頭に戻る。
「じゃぁ、私たちは? 私たちは何なの?」
パートナー?
とても仲のいい友だち?
イヤだと思えば会わないですむ関係?
それとももう「家族」のようなものになっているのだっけ。
パートナーと家族の違いは何だろう。
仲のいい友だちと家族の違いは何だろう。
「行列のできる法律相談」(だっけ)、女性に暴力をふるった芸人がまるで何事もなかったかのように司会している「人気番組」。あれ、時々、見るけれど、ほとんどの相談が「離婚できるか、できないか」である。例えば先週は、妻の過去にいちいち首をつっこむ夫。そんな夫と離婚できるか?!
ずっとずっとその問いかけ自体が不思議だった。
離婚なんて、したいか、したくないかではないのか。
・・・ではなかったんですね。結婚はしたいか、したくないか、が問われるけれど。離婚はできるか、できないかが問題になる。始まりは気持ちの問題、終わりは事情の問題。それが「日本の家族」なんだと、あの番組を見ているとよく分かる。(考えてみれば、マサコサンちもそうだね。離婚したくても、あの状況でできるかできないか、ずっと考えているかもしれないよね。)
で。例えば私と私の同居人が二人で勝手に「結婚してまーす」とか言ったところで、「離婚できない」なんて状況を創るなんてこと、あるだろうか。どちらかが「別れたい」と言えば、「そうですか」と言うしかない関係じゃないの。それでも、例えば女どうしでも「結婚」できますよ、なんて事になった時に、私たちは「簡単には離婚できない」ための「結婚」をするだろうか。
「家族」になる、とは。簡単には切れませんよ、というヤクザな契約をすることなのだと理解する。それでは、「あなたが好きな時にクーリングオフ」みたいな、ゆるーい関係は何と名付けられるんだろう。
とはいいつつ。簡単にクーリングオフされたら、それはそれで傷つくから、やっぱりヤクザな契約に頼りたくなる心情も、人にはある。私にもある。友だちをなくした上、この上、同居人に去られたらイヤだものな。同居人には、ヤクザ契約をしてもらっておこうか、という身勝手な思いもわいてくる。人はこんな時に「結婚」を選ぶんだろうか。ああ、人間は図々しい。フォアグラ食べながらプロポーズごっこするくらいでとどめておこう。
さて。今週末、大阪府議会議員の尾辻かな子さんが声をかけ、東京で同性愛者のパートナーシップ法に関するシンポジウムが開かれる。その前日には早稲田のパフスペースでやはりパートナーシップについてのトークショーがあります。(私もゲストとして参加します)
どのように、誰と生きたいか。
そんなことを考えるきっかけになるかも。