イチローが、「心の中に日の丸がある」とかなんとかテレビで言っていた。右手を左胸にあてながら。アメリカ人みたいに。
この国は「英雄の物語」が好きだ。私はそれについていけない。イチローの物語なんて、男の物語なんて、日本男子の物語なんて、もうこれ以上、私はいらない。世の中はもう十分、チンコの物語に溢れているというのに。これ以上、知りたくないし、おなかいっぱーいゲプ。
女の物語が観たいねぇ。そう思うから、最近は、映画「プリカちゃん」ができあがっていくのが、ほんとうに楽しみだ。たった20分ほどの短い映画だけれど、どういうわけか、驚くほどに濃密な空気が漂う作品になっている。これから音楽を入れたり、声優さんの声を入れたりしていく作業に入っていくのだけれど、荒い編集段階ですら、私はもう何度も泣いている。
飢えているんだと思う。女が女と愛情を深めてゆくような物語に。複雑な人間関係の泥沼ではなく、目の前にある友情や関係を信じられるようなシンプルさに。奪い合うような力ではなく、互いにコチョコチョくすぐりあうような、脱力に。団結する感動じゃなく、ひとりひとりの気持ちを大切にするような緩やかさに。英雄とか、金メダルとか、勝利とか、仲間とか、正義とか、大義名分とか、日の丸とか。大きなことを言わない、平常心とかに。
ところで数日前。この春、小学生になる姪が家に泊まりに来た。私は張り切り、数日前から色々と構想を練っていた。「鍾乳洞に行くとか?」「原っぱで草つみとか?」「川に魚釣りに行ったりして〜!」
都会ッ子の姪にとって、土遊びと言えば砂場しかない。だったら、思い切り田舎に行こう。電車にもあまり乗ったことがないだろうから、その日は私も車は使わず、電車で遠く遠く遠くまで行ってみよう! 自然に触れて、心に残る幼稚園最後の春休みを一緒に凄そう!
で。いざ、その日がやってきた。私は姪っ子の顔をのぞき込んで聞いた。
「さぁ今日は何して遊ぼうか?!」
すると、姪はシラーとした顔でこう言った。
「ミンミン(私のこと)は、何したいの?」
「え・・・(予想外)? ミンミンは・・・、うーん、今日は色んなことして、遊びたいな!」
すると姪は少し迷惑そうな顔をして低い声でこうハッキリとこう言った。
「今日は家でゆっくりしたいな」
今時の都会の幼稚園児は忙しいのだった。公文にピアノにバレエに水泳に。平日はたいてい何か習い事をしている。土日だってなんだかんだと予定がつまっている。せめてオバチャン家に行った日くらい、「ゆっくりしたい」ってことなんだろう。あー、脱力。結局、私たちは都会のど真ん中の健康ランドに行ったのだった・・・。寒かったし、私はそれで良かったし、姪も喜んでたけれども。
それにしても子どもといると、自分でもちょっと驚くくらいに疲れることに気が付いた。半日遊んだあたりで、私は口数が少なくなり、足が重くなり、気が付くと床に倒れるように寝てしまっていた。姪はその間、ふだん家で禁止されているというテレビを観ていたらしい。気が付いたら2時間近く、私は姪を一人きりにしていた。起きたらもう夜で、食い入るようにちびまるこちゃんを見ている姪がいた。
ギャー、せっかくの「思い出が!」と、焦ったが後の祭り。
それにしても、なんであんなに疲れたのだろう、と振り返る。だって、私ったら、その晩、下痢になるし、知恵熱(としかいいようがない!)まで出たんだよ。
で、思ったこと。子どもと向き合うってことは、「私が子どもだったころ」を再現しながら、目の前の事象に対処していくことなんだろうって。私がされたかったこと、私がされたくなかったこと、を思いながら、6歳の子どもの「今」が優しく美しいものであることを祈りつつ、それでもそこに自分がどう関与するのか、どうやっても独善的になりそうな怖さに萎縮したりで、それでもより良い関係で関わろうと張り切ったり。そんな風にあちゃこちゃ悩みながら、「理想の大人」として振る舞おうとしたり、それは自分のエゴだと反省したり、「教育」とはなんぞやとかいらんこと思ったり。
・・・ま。今までに使ったことのない脳を使ったんだわ。
姪を妹の家に送る途中、少しホッとしたりしている自分に気が付いた。でも、一番ホッとしていたのは姪だったようで。玄関で「ただいまー!!」と大声で叫ぶと私の方を見ることなくスキップするように家の中に入っていった。もっと小さい頃は、「ミンミンともっと遊びたいよぉ」と私にベタベタしてたのにな。「自分の居場所」や「心地良い人間関係」というものを、6歳児の子どもももうきちんと築いているんだなぁ。というか、私といて、姪も気を遣ってたんだね。
帰り道。大きな声で「ただいま」なんてこと、ここ何年も言ってないよなぁ、なんてことを思った。