いつからなんだろう。サムライ、がカタカナで定着したのは。
ずいぶん前、オーストラリアの知人が日本に来て地下鉄に一緒に乗った時、疲れて眠りこける車内の男たちを見て「オーオー!」と興奮していた。
「日本人すごい、電車の中でも瞑想しているんだね!」
コーン! ししおどしが頭の中でなった。
少し前、日本びいきのアメリカ人女性と話している時、彼女が日本の男性が世界で一番イイ! と言い切った。
「優しいし、責任感があるじゃない?」
たまげた私はいくつか確認をした。もしもし、お忘れじゃありません?
「電車の中で大股開く男も世界一いいの?」
「威張る男も世界一?」
「人にぶつかっても謝らないでずんずん歩く男とかは、まさか世界一とは言えないだろ?」
しかし彼女は自信を持ってこう答えたのである。
「サムライみたいで、いいじゃーん!」
コーン! やっぱりししおどしが頭の中でなる。
ちょっと前、トリノオリンピックで荒川静香が金メダルを取った日、イタリアの新聞が「ゲイシャのようなウンタラカンタラ」という表現をしていた。
コーン! やっぱりししおどしが頭の中でなる。
「日本のイメージ」としてドラマの場面切り替えで使われるししおどしの「コーン」。観客は、その「コーン....ポトン」のあの音だけで、ああ日本庭園ですね、と知ることができる。そんな、定着したイメージが世の中にはある。で、そのイメージが固定化すれば、現実を取り違えてみる、ということも簡単にできるのだ。
日本人が電車の中で涎をたらして寝ていようが崇高な瞑想に見えるように。日本人男がチンコ広げて二人分の座席を占拠していても義に固いサムライに見えるように。イタリアオペラで氷上を踊る荒川静香がゲイシャに見えるように。
貧困で狭量なイメージ力は見たいものだけを見ることができる幸福の装置だ。
それにしても、サムライ/ゲイシャ。カタカナで定着しつつあるのって、どうなんだろう。明らかに逆輸入であることを受け入れ、新たにそのイメージを固めている、っていうような気がする。特に、アジア外交がビミョーな今、イチローの(韓国に二敗した時の)「野球人生でもっとも屈辱的な日」という発言は、”いくらなんでも”感が漂う。そんなイチローを「サムライ」「サムライ」と男メディアが痛々しいくらいに必死で持ち上げている様子を見ると、ここはアメリカなのか、それとも日本なのか、いったい時代はいつなの? とくらくらしてしまう。
アメリカ人から輸入した「サムライ」が、日本の奇妙なナショナリズムを盛り上げている。アメリカに住む日本人が、だから逆に「日本人魂」を発見したかのように、日本ナショナリズムを先導している。サムライ、として。
そんなことを、同居人に話した。
「サムライなんて呼ばれて嬉しいかよ、バカバカしい。こういうのを屈辱っていうんだと思わない?」
すると、彼女は、
「え? そう? 私、白人にサムライって呼ばれたら、ウレシイと思うよ。だって、人間じゃん!」
と言うのだった。
アメリカやヨーロッパを旅行すると、あからさまな人種差別を受けることがある。彼女もしかり。
「イエローモンキーって何度言われたことか。だったら、私はサルじゃありません。サムライです! って言えるだけ、サムライの地位があがって私はウレシイ!」
ナショナリズムとは悲しいものだと思った。