ラジオを聴いていたら「本当の友だちはいますか?」と聞こえてきた。
「本当の」って・・・難しい言葉だね。
「本当の恋人はいますか?」なんて、あまり聞いたことない。
「本当のセックスフレンドはいますか?」なんてことは、聞かない。
「本当の同僚はいますか?」なんてことも聞かない。
なぜ「友だち」には「本当の」という形容詞がつけられるのだろう。
「ウーマンラブウーマン」という映画がある。レズビアンをテーマにしたオムニバス。
その中の二作目の物語を思い出す。
主人公は70年代アメリカの大学生、レズビアン。レズビアンの友人たちと共同生活する彼女の生活に、「男的ジェンダー」を持つレズビアン(トランスジェンダーっぽいけれど、ハッキリしない)が現れ、二人は恋に落ちる。ところが主人公の友だちはみんな「女であることを」を積極的にポジティブに受け入れているレズビアン。「男のフリ」をする女のことを「思想的に」排除しようとする。
この物語は「友だち」がテーマではない。「人と違う自分」をどのように受け入れるか、「人と違う他人」をどのように受け入れるか。そんな物語だ。それでも何度か観ていくうちに、「友だち」というものの意味をとても深くつきつめているような気がしてくる。
結局、主人公にとって「友だち」とは「自分と似たような女たち」であった。だからこそ、主人公が「変化」していくことに「友だち」は嫌悪を示す。主人公自身もそんな自分に「戸惑い」を持つ。
そう。友だちとは「自分と似たような人たち」である。だからこそ、友だちを好きになりその友だちと近づいていくことは、自分自身のことも好きになる過程だ。だからこそ、友だちに「裏切られたり」、友だちに「悪口を言われたり」する傷みはいかほどのものか。
映画の中で主人公は、友だちに啖呵を切る。
「あなたたちは結局、自分と違う人間が怖いんだ!」
レズビアンの解放運動をしながらも、他者との違いを一番恐怖に感じていたのは彼女たち自身だった、ということが、「友人関係」の持ち方を通して見えてくる。
友だちには、季節がある。
春の出会い。夏の情熱。秋の静かな豊穣。そして冬の別れ。
多くの人間関係に「季節」はない。出会って、別れる。少しふれあって、別れる。深まらずに別れる。
だからこそ、友だちとの関係は、私たちの「生きる」を彩り豊かにすると思う。
それでも。どんな関係も終わりがくるように、腐らないように努力するのが非常に大変なように。友情は永遠ではない。終わる。自分と似ていた友人であればあるほど、その終わりはあっけなく。哀しいくらいにあっけなく。自分と似ていない友人を持つ人は少ない。だからこそ、「本当の友人はいますか?」なんて、友と別れた友たちはそんなことをつぶやいてみたりする。「本当の友だち」なんて、「本当の自分」が限りなく曖昧で不明であるように、ないというのに。
「本当の友だちはいますか?」
それでも、その言葉がずっとひっかかっていたとき、ふと言葉が一つ浮かんだ。
「走れ」 走れマンコ。友マンコのために走れ。友がいるなら走れ。メロスのように走れ。
自分の合わせ鏡のような友だちとの関係に溺れることなく。友情の季節の変化の恍惚感に酔うことなく。別れを恐怖することなく。優しさだけで関係を築くのではなく。悪口を言うことでつながるのではなく。走れマンコ。友マンコのために走れ。友がいるなら走れ。
自分と似ている友人を見つけるよりも、そんな友人を見つけることはとても難しいことかもしれない。それが「本当の友人」であるかどうかは、知らない。ただ、そんな友だちのために走りたい、という自分の気持ちが、最近は深まっているように思う。私自身も、私と似ている人たちを「友人」と呼び、「似ていない人」を排除していた時期が、とても長かったから。彼女に裏切られても、私は彼女を裏切らない。そういう風に思えたらいい。そんな友だちが欲しく、そんな人になりたいな、と思ったりする。
あなたの「友だち」はだれだろう?