「元デリヘル嬢」と大きく報道されたのは、まだ逮捕前だった。
「家に若い男が通っていた」と何度も繰り返し報道されたのは、まだ逮捕前だった。
「子どもを折檻していた」とメディアが書いたのも、まだ逮捕前だった。
「逮捕後」となった今、彼女の「興味深い私生活報道」はますます激しくなるだろう。逮捕のニュースは、「規制緩和!」というかけ声に聞こえる。ネットニュースではすでに「鬼母」という文字が躍り、彼女の「性生活」が、周囲の人々の「証言」という形で紹介されている。
オンナとは誰か。
先日、そんな「古く・新しい」問いを、改めて考える機会があった。「トランスジェンダーフェミニズム」の著者、田中玲さんのトークショーでのこと。たとえばフェミニズムは「オンナである」 当事者性を大切にするが、その中にMTFは入っているのか? その中にFTMは入らないのか。そんな議論から、「果たして、じゃぁ、オンナってなに?」 というような話でもりあがった。
こういう時、「私は女」 ってところで、地に足つけて踏ん張ってきたフェミは、まるで頑固親父、まるで昔気質な職人、という役割を与えられる。「私は女」 とこだわることは排他的・・・ というような気分になり、「ああ、昔、女が単純に女ってだけで差別されていた時代はシンプルだった」なんて、妙な気分になったりするものだ。
例にもれず私も。改めて、ワシは職人気質系フェミじゃのー、と思う。オンナと言えばオンナなんだよ、と、「言葉遊び」のような問いには、えーいとちゃぶ台ひっくり返すように乱暴に答えたくなる自分がいる。
でもこの日は少し考えた。「オンナって誰? なに?」
でも答えなんてやっぱり出なかった。
ただ、少しわかったことがある。
「生きていく」上で、私がストレスを感じる多くのものに、私の「オンナ」が関わっている。「生きていく」上で、私が幸せを感じることの多くに、私の「オンナ」が関わっている。だとしたら、「オンナ」の答えはもう出ているじゃないか、と。
「オンナ」とは「体験」である、と。
マンコを持っていようがいまいが。オンナに見えようが見えまいが。「オンナ」であることは、「オンナという体験」だ。と考えれば、おお、今、わかったことが一つ。たとえば「オンナとしての幸せ」という言葉、私、大嫌いなのだけれど、それは 「政治的」 に嫌いというよりは、むしろ「文法的」に間違っていることの気持ち悪さだったんだよ。
オンナは体験。それが、フェミの言う「当事者性」であり、「私はオンナ」という点にこだわる理由なんじゃないか。オンナは体験。だから私「オンナが好き」というとき、それは、体験から生まれる共感や共鳴みたいなものを、とても大切だと感じていたじゃないか。(もちろん・・・マンコ・乳首という物理的な要素も入ってはいるけど。後付可能だしね)
なんてことを思っていた時にちょうど、秋田県の小学生殺害事件で、容疑者の女性が逮捕された。
そして。私は今、私自身の「オンナという体験」を、ひどく陰鬱な気分で味わっている。
彼女のしたことと、彼女がされたこと。この二つはいつも、つながらない。オンナの犯罪者の場合、特につながらない。
オンナはいつも、自分がしたこと、しなかったことを、オンナ故に問われる。オトコとセックスしたこと。子どもを「ふつうの母親」のように世話しなかったこと。それを、問われ、責められる。
オンナを体験するということ。自分の体験として、オンナの体験が迫ってくる時がある。そういう時、私は自分がフェミを選択したことを気が付く。
こんな体験の仕方がとても辛かったから、私は自分がオンナであることを、楽にしたい。だからバイブ屋になったような気がする。
私はオンナ。
なんだか改めてそんなことを大きな声で言いたいような一週間のはじまりになった。