犬派と猫派という見えない線が、人間界には引かれている。ような気がする。
少なくとも私と相方の間ではその線は明確に引かれていた。二人でペットを飼おうということになり、犬を飼いたい私と、猫を飼いたい相方は、それぞれに犬の代表、猫の代表にでもなったように言い争った。
「犬はねぇ、散歩に行けるのよ。一緒に街を歩けるんだよ」
「猫はねぇ、散歩しなくてもいいのよ。家でゴロゴロ一緒にできるんだよ」
「犬はねぇ、呼んだら真っ先に飛んできて、言うことをきくのよ。頭いいのよ」
「猫はねぇ、勝手に生きてくれるのよ。頭いいのよ」
しまいには、互いの短所をあげつらうようになる。
「猫は垂直移動するでしょう。信じられない!」
「犬は吠えるでしょう。あり得ない!」
犬派の私には「規則正しさ」と「強い絆で結ばれた仲間」への憧れが強くある。毎日同じ時間に散歩にでかけ、毎日同じ道を歩く。毎日同じことを一緒に繰り返す。そうすることで強い絆と、二人の世界観が深まってゆく「犬の生活」。
余談だが、「犬の生活」といえばチャップリンの映画を真っ先に思い浮かべる私にとって、同じ名前のペット用品店(セレブ犬のためのお店)を見つけたときはとても驚いた。そこには犬用のふかふかのソファはもちろんのこと、数万円もする首輪だって売っている。「貧しさ」の代名詞だった「犬の生活」は、いまやたぶん、ビンボーな都会暮らしのマンコ持ちより上等なはずだ。
もとい。犬を飼うということは生活が社会化する、という気がする。犬とともに街にでかけ、時には他の犬族との立ち話。ウンコもお片づけ。犬のオシッコしないで下さいのたて看板のところでは、決してマーキングさせません。散歩も社会勉強。ああなんて健全なのだろう。そして、犬との絆。決して裏切らない関係。私は今、はそういう健全さと確かさを求めているのかもしれない。もしかしたら昨今の犬ブームは、逆に社会からの孤立と精神的な不安定さを表象してたりして。
それが・・・猫だと、私のイメージでは真夜中のドンキホーテである。夜中のドンキホーテで猫缶を大量買いしているホスト風の男や白いヴィトンを肩から下げる不健康そうな女子、一度は見たことないですか?(私は必ず遭遇する) タバコと猫缶と猫の匂いが充満する、濃密な私的空間。猫との間に絆はなく、あるのは依存。それが私の猫のイメージ・・・。猫を飼ったら、生活が曇る・・・これ以上曇る・・・そんな気持ちで猫飼いを反対していた私だった。
のだけれど。
数ヶ月にわたる、犬猫論争の末。結局、私が折れた。
ある日、ふと、気がついたのだ。
化け猫という言葉があるくらいだし。魔女には猫がつきものだし。そうだ。私たちには犬の健全さよりも、猫の魔の方が似合うのではないか、と。婆が猫をひざに抱くのは世の常だしね。犬と共に草原を駆け回ったり、山に行ったり、海岸を走るという若々しい憧れは、所詮は憧れなのだ。魔女として、犬をあきらめよう。戌年だけど、犬をあきらめよう。
そして、私はあっけなく、猫を受け入れた。春には猫が大量に生まれ、捨てられる。猫を中心に生活しているという、猫オジサンとネットで出会い、生まれて2ケ月の猫を・・・二匹ももらってしまった。
そして。猫が来てから、私の生活は一変した。
というか、私が一変した。というべきか。
猫の世界に入ったのだった。
そのことに気がついたのは、書店に入ったときのこと。
どういうわけか、「猫」という文字が目に入ってくるのだ。あと、「にゃん」とかいう単語も。
今まで、なぜ、この世界に気がつかなかったのだろうと驚くほどに、世の中には「猫」をテーマにした本が、多い! 猫専門の雑誌まである! 猫を題材にした川柳の本まである! 猫と作家の関係を記した本まである! なんだこの世界は!!!! フェミ専門の商業誌などないぞ! フェミを題材にした川柳の本などないぞ! フェミ本なんて、書店の片隅においやられている時代だよ!
フェミは猫に負けている。私も猫に負けた。フェミ棚の前よりも、猫棚に夢中になってしまった。
世の中には、猫以前と猫以後がある。
どうやら猫以後の世界に入ってしまったらしい私は、今、猫が中心の生活になっている。寝ては食べて遊びウンコして寝る猫たち。その繰り返しの生活を見守りながら、ひとつ、自分の中に今までなかった感情がわきあがっているのである。それは、どう説明したらよいのかわからないけれど、こういうしかないというもの。「今までにない満たされ方」。
先日、友人がお店に来てくれた。2歳の子供と一緒に。会話の中でふと私は彼女に聞いた。「子供を生んで、一番、変わったのはなに?」彼女は一瞬考えた後にこう言った。「今までにない満たされ方をしている」と。そのとき、私は口に出さなかったけれど、ああ、私が探していた言葉はこれだ、と気がついたのだった。
そして、改めて途方にくれている。
猫によって満たされている私。それは「子育て」欲求の代価なのだろうか?
ってことは、私は子どもをほしいと思っているのか? 自分では気がつかないレベルで?
そもそも、彼女の満たされ方と私が今、猫との生活で感じている「満たされ方」は同じ類のものなのか?
同じだとしたら、それは自分に依存する生き物にしか感じられないものなのか?
子どもを持つ可能性は限りなくゼロである、私と相方の生活。
猫は、「子ども」の代用品なのか。それとも、「子ども」は猫のような存在の代用品なのか。
それは、猫人口がフェミ人口より多いことと、何か関係があるのかしら。