あ。私の中の血中フェミ濃度が下がっている。
そのことに気がついたのは、西川美和監督作品「ゆれる」を見終わった時のこと。
オダギリジョー演じる弟タケルと、香川照之演じる兄ミノル。物語は東京でカメラマンをする弟タケルが、母の一周忌のために山梨の実家に帰るところから始まる。地元のガソリンスタンドを継いだ兄ミノルは優しく真面目な人柄。やっかいなクレーマーも人柄でうまく対処し、店長として人望もある。法事の翌日、二人は幼なじみの女性と共に、子どもの頃に遊んだ渓谷に向かう。女性はタケルを想っており、二人の間には以前、何かがあったようだ。事実、渓谷へ向かう前日、タケルは彼女とセックスしていた。密かに女性に想いを寄せている兄は、その事実に気がつきながらも明るく振るまう。が・・・が。心のもつれ、関係のもつれがひきおこした「衝動」で、兄と彼女は吊り橋の上でもめる、もみ合う。そして彼女は、15メートル下の川に落ちて死亡する。弟はその様子を遠くから目撃していた。彼女は事故だったのか、それともあの優しい兄が殺したのか?
そんな物語。
西川監督は32歳。マンコ持ち。男くさい映画業界と聞く。応援したいじゃないのぉ! と楽しみにしていた。そして。面白かった。ストーリーも、セリフも、男優たちの演技も。充足した思いで映画館を出て、一緒に観た相方に感想を聞いた。
どうだった?
そっちはどうだった?
どうだった?
なんとなくしばらく遠慮をしあっていたら、突然、相方がブワー―――――――――――――――――――――――! とすごい勢いで話しはじめた。というか、怒り始めた、というべきか。
「ドヘテロとはこういうことを言うんだね」
「体を粉にして働いた母の死、何の罪もない女の死。それが物語の前提としてサラリと流れているのが、男くさい。」
「なんで、この映画、そんなに見たかったの? これ、男の描く物語となにも変わらないよね。というか、男が大好き、男を愛しています! というのが伝わってきて、もぅいいよ、という気持ちになった。」
「これ、すごく人気あるんでしょう? 当たり前だよね。偉い男たちも、こんな風に女が男を描いてくれたらうれしいよね。」
「もう、眠くなるの必死にこらえていたんだよー」
そして相方は叫んだ。新宿の真ん中で。
「私は映画を観終わった後に立ち上がって叫びたかった。みなさん、この映画を面白いと思ったみなさん、あなたたちは男の感性に毒されている!!!」
ヒー! あまりの勢いに押された私は生まれて初めて。ほんと、生まれて初めて。こんなことを言った。
「フェミも過ぎると・・・大変だね・・・。」
しかし。家に帰ってきて。彼女の言葉と映画を同時に振り返って行くと、急に胸が苦しくなってきたのだった。何かを深いところで苦い思いを反芻しているような。
確かに、相方の言うように。映画の中で、「女の死」はあまりにもあっけない。女の死は兄弟の絆を描くためのキッカケでしかない。そして登場する女たちはみな、男によって不幸になり、男によって幸福になることが匂わされている。さらに弟は「他人を信じられない」という設定になっているが、それを観客が察するディテールとして、女とのセックスが使われる。
それでも、私は映画を観ながらこれを「男の物語」としてはみなかった。自分にも置き換えが可能な物語。そんな風に観たいと思い、そんな風に観ていた。映画の中で男たちは傷つけ、許しあってゆく。ボコボコに殴って仲直り、という「男らしさ」はない。ただ言葉で傷つけあう。それでも絆を求めていく。許しあっていく。そんな風に「関係性」を他者と持てる男たちの物語など、観たことがない。それだけでも面白いと思った。
だけれど。胸が苦しくなった原因はここにあるように思った。
男の物語を男の物語ではなく、女でも置き換えられる物語、として観るクセを、私はいつまでやるんだろう、と。
「路傍の石」とか「次郎物語」とか・・・。そう。私は「少年の成長物語」が大好きだったのだ。次郎物語を何度も読んで、静岡の海を観にいったこともある。路傍の石に泣いて、千葉の海で主人公を思ったこともある。同世代の女子は、少女マンガで少女の成長物語を得られたのだと思うが、私は「マーガレット」と「りぼん」の区別もつかない小学生だった。少年の成長物語に興奮した。少年であっても、これは女の子に置き換えられる、いや、自分だったらこの少年と同じような。少年と自分は、一本の線でつながっているようにすら思えた。
いつからか、そこに自分がいないことに気がついて。私は、味わえなかった女の物語を欲しがりはじめた。女の物語、がなんだか分からないけれど。それでも「もう、少年の物語はいらない。男の物語もいらない」と思っていたのだけれど。それでも、やっぱりそのクセはなかなか止められない。
どこかのインタビューで西川監督は「人間の業を描きたかった」というようなことを言っている。「人間」を描くのに、なぜ「男」を選んだのか。女が主人公でも「人間の業が描かれた」と評価してもらえるのか。同じようなストーリーを「女」を主人公で描いたら、「女というものは怖い」なんて陳腐な感想しか出てこないのではないか。そんなことを思いながら、「男の物語」を私は、観ている。観ていた。「女」がいないことを思いながら、それでも、これは女の監督が作ったのだよ、と思い、観ている。観ていた。
ちなみに相方とはその後、こんな話になった。
私「私は、自分と妹を重ねて見た。私は、オダギリジョーと香川照之の関係を自分と妹に置き換えていた」
相方「自分が何を言っているのか、分かってるの?!!! そんなことヒドイ! 女の神に唾を吐くような行為だよ! あの映画は遊就館と一緒だよ!!!」
私「え、遊就館? なぜ?」
相方「意味なんてどうでもいい! どうして分からない?!」
私「落ち着いて! たいへん。あなたフェミ血中濃度がマックスで、危険な状態よ! それ以上、フェミが濃くなると、世の中やっていけないわよ。もうすぐ、男を殺してしまうかもしれないわ。フェミ濃度を少し下げる薬を出しましょう。フェミも過ぎると、病気になるわよ。」
あらら。人のフェミ度に注意を促すくらい、私のフェミ血中濃度が薄くなってしまったってことだろうか。薄くしないと、おかしくなっちゃう世の中ってことかしらん。