「女ならば誰でも、一生のうち、子どもを産みたいと思うもの」
杉田かおるがテレビドラマ「不信のとき」で泣き吠えていた。
原作にない杉田かおるの役がこんなセリフを重々しく吠えるのを、原作者の有吉佐和子さんは天でどのようにご覧になっていらっしゃるのかしら。
「不信のとき」は1967年から日経新聞に連載されていた小説。試験管ベビーなんて言葉が流行語になるずっと前に、人工授精をテーマにしたこの小説は当時大変に話題になった。
男を奪う女の戦い(愛人VS妻)がテーマになってしまったドラマとは全く違い、原作は女にとって必要なのは無能な「男」ではなく、有意義な「精子」であるという、女のリアリティ、女の強かさのに焦点が当てられていた。
そう。タイトルの「不信のとき」とは、原作に限っては、女の男に対する不信でも、女の女に対する不信でもない。男の女に対する不信である。女一人になにができるか、と女を甘くみてきた男たちが徹底に女にヤラレル物語、なのだ。
それが、2006年のドラマでは。40年前に愛人と妻が男を譲り合うという画期的なシーンが、愛人と妻が男への愛を確認する悲しいシーンになっていた。さらに冒頭のセリフ。杉田かおるが言うから、観ようによっては「わはは」と乾いた笑いもありだと思うけれど。聞きたくないねー。2006年に。わはは。
さて。尾辻・北原カフェのご報告です。
「北原さんは、レズビアンなんですか?」
と聞かれて動揺した私。(写真は動揺中の私、手前。奥が尾辻さん)
動揺したのにはいくつか理由がある。
一つ。私は去年が私のレズビアンカミングアウト元年だと思っている。ラジオでも何度も言ってるし、書いているし。・・・それが、全く広まっていないことへのショック!!! やっぱり笹野みちるさんみたいに、ステージで手をフリフリしただだけでかっこよく、フフフフフーンと鼻歌を歌ってるだけでも絵になるような有名人がカミングアウトしなければ話題になるわけもなく。尾辻さんみたいに、政治家という立場の人がカミングアウトしなければニュースにもならない。マンコマンコ言うバイブ屋が今更、私、レズ・・・と言っても話題にはならなく、書いていても、無視されている状況なのである。あーあ、もういちいち説明したくねーよー、という傲慢的表現者としての動揺。
一つ。私の中のレズビアンコンプレックスを刺激されたような気がする。
レズビアンの友だちと話しをしていると、疎外された気分になることがある。それは、チンコとの関係性。
「男がいやだからレズビアンになったと思われるのがいやだ」
「男とか女とかじゃなく、女にだっていやな人もいるし、男にもいい人もいるし」
とか話すレズビアンがチンコとのセックスには冷淡だったりする(当たり前?)。
「男とのセックスでは何も感じなかった」「気持ちいいと思ったことはない」
そういうレズビアンの話を聞くと、私はレズビアンとしての純度が低いんじゃないか、という気持ちになることが時々ある。
だって私、チンコとのセックス、気持ちよかったから。気持ちよかったから繰り返してたし。チンコと会話する時間があるならセックスしたいと思っていたし。でも。チンコと心から仲良くなりたいとか、チンコにもいい人がいるとか、あまり思ったことがない。私にとってチンコはどんなにセックスしても近くならない存在だったように、今は思う・・・ああ記憶が薄れている・・・。
だから。尾辻さんのように、つきあった男性を傷つけることを恐れながらも(やさしいよね・・・)カミングアウトし・・・みたいな過程を経ていない私にとって、「(私と同じ)レズビアンですか?」と聞かれると、「種類の違うレズビアンです」・・・と言わなくてはいけないような気分がどこかにあったのかもしれない。だから動揺したのかも。
で。動揺した私は尾辻さんに切り口上的に、
「なんで、そんなことを聞くの?」
なんてことも聞いてしまいました。すると尾辻さん。
「他の人に聞かれたときに、困ることがあったんですよー。北原さんってレズビアンなんですか? って私に聞いてくる人がいて、私は答えられませんって言っておきました。」
ちょっと! 尾辻さんに質問した人たち! これからは直接私に聞いて!!
さて、動揺した私はお酒を私にしてはたくさん飲みながら、私のセクシュアリティライフ、というものについて考えはじえました。@星空カフェにて。
続きはまた明日。