最近、頭の中で「何かを考えている」とき、「・・・である」とか言っているときがあって、自分でビックリする。全く「思想」とかそういうのではなく、例えば満員電車に乗ったとき、周りに男ばかりが立った時などに、「ひどいものである」とか、そういう感じで。
である、っていうのは、どういう心理状況を指すんだろう。「言葉占い」とかいう分野があるのか分からないけれど、「クセの言葉」とか、「文末」とか、「話し言葉の最後の行」って、人の性格がとても出ていると思う。私の場合、話し言葉はひどく曖昧なように思う。尻つぼみになる。声が小さくなる。もやもやする。話を変えて飛ばす。ワザとやっているわけではないけれど、インターネットラジオの仕事を始めてから初めて、意識した。それはつまり、自分にものすごく自信がなく、どこか「どっちにでもとっていいよーん、決めてー」とかいう思いがあるからだろう。そんな私が心の中では、「である」って最近、言い始めている。そう、言い切れたらすごくラクチン。そう、言い切れるようになったら、私はもっとスッキリするのかも。と感じ始めているのかもしれない。
今日は、ようやくアエラの「現代の肖像」の原稿を書き終えた。5ケ月近く、映画監督の浜野佐知さんを追ってきた。浜野さんは自伝も書いていらっしゃるし、さらにラブピースクラブのフェミドルにご登場いただいたこともある。そんな浜野さんのことを、これ以上どう書けるだろう・・・と不安だったが、監督として、というよりは、「女のボス」として捉えてみようと思った。浜野さんが自分の上司だったらどうだろう? 浜野さんは女の部下にどう接するのだろう? 立場が対等ではない状況で、女たちが「共に働く」「組織をつくる」というのはどんなことだろう。そんなことを書いてみようと思った。書き終わって、書ききられていないなぁ、と、なんだかグチャグチャ思う。女同士で、どんな組織をつくるのか、それは本当に難しい、私自身のテーマのようにも思う。
と、そんなことを考えながら電車にのったら、今日発売の日経ウーマンの別冊「EZ」の中吊り広告が目にとまった。「女性リーダーのためのビジネスライフ誌」だそうだ。こんな言葉が目にとまった。「会社で責任を引き受ける女たちの主語がIではなく、WE」。 感慨深いね。80年代とはエライ違いになってきたな、と思う。「WEではなく、Iで考えよう」というのが、80年代の女の自立というイメージがあった。それが今は間逆の価値になってきている。つまりは、WEで考えるのが「自己犠牲」という言葉とは結びつかなくなった、ってことなんだろうか。
生きていると、本当に色んな風に価値観がゴロゴロと変わってゆく世の中に出会うものである。その流れと私は決して無関係とは言えないだろうが、年を重ねていくってことはどこか、「へー」と客観的に世の中から遠のいていくような感覚を、体の中に感じていくことのようにも思う。思えば、山谷えり子が内閣総理大臣補佐官、しかも教育再生担当になっちゃうなんて、数年前には「んなわけないじゃーん!」「ははははー」なんて話だったような気がする。この場合「へー」でいいのか、っていう感じもするけれど。阿倍内閣、いよいよ発足の日。いよいよ、って感じである。