いったい人は、どのように「変わっていく」のだろうか。
例えば、リベラルチンコがヨーロッパとか行って白人にアジア人差別を受け、帰国後にジワジワ国粋主義者になっていく・・・みたいなことは歴史上にいくつも例がある。例えば「男となんて暮らせない」と言っていた勢いのよいフェミが、「いい物件見つかったから」・・・と男と同居することなど、歴史上、無数に行われている。
「私は絶対に変わらない」と言う人もいるかもしれないが、人というものは「私は絶対に変わらない。私は変わらない」と常に呪文を唱え続けていないと、案外簡単に変われてしまうものなんだと思う。それは自分への裏切りでも、他人への裏切りでも何でもなく、どっちが本当の自分なのかっていう試練でもなく、ただ「変わった」ってことなんだと思う。
と、こんな風にグチャグチャ思うのも、いったいいつから私は、見知らぬ爺とお茶を飲むくらい男に対して寛容になっていたのか、ということなのである。しかも。初対面の。スタバに入れないくらい貧しく、服は様々な湿気を吸い込み肌にピタリとはりついているような・・・そんな爺とである。
マクドナルドで私と爺は向かい合い、100円のコーヒーを飲んだ。隣の中学生たち(男女混じった数人のグループ)が、コッチを時折見て、笑っている・・・ような気がする。意識しすぎかもしれない。それでも、ホームレス(風)と中年女の組み合わせが、放課後の中学生でにぎわうマクドナルドで目立たないわけがない。そしてそんな風に意識してしまう私は、私と爺の席が周りの空間から文字通り10センチくらい地から浮いているような、不安な思いになるのだった。それでも爺はそのような視線にまったく無頓着で、韓国語がどんな言語であるか、ということを実に熱心に語る。語る。とにかく、語りはじめた。
ハッキリ言って、言っていることはめちゃくちゃだった。
私は日本で一番、教えるのがうまい。
私は日本で一番、韓国語の発音が上手だ。
私が本気で韓国語の教科書を書いたら・・・殺される。
ああヤバイ人と一緒になっちゃったよ・・・と普段の私ならその時点で自分を呪うだろう。ところが、なんだかその日、私はマクドナルドでの浮き具合を意識しつつ、どこかでその状況を楽しむ自分がいたようで。気が付くといっぱい質問していたのだった。
大変ですね・・・いったい、誰に殺されるんですか?
とかね。で、その度に爺はマジメに答えるのだ。
大学院のヤツラにデスよ!
結論から言うと、私はその爺に、今、韓国語を習っている。
そんな爺に!? 自分を疑いつつ、マクドナルドでのメチャクチャな会話の中で、私が爺を信じたなんだかとっても美しい瞬間が、私を決意させたのだ。
爺に、授業料と、他に生徒はいるのか、だいたいあんたが住んでいるビルの家賃は誰が払っているんだ? とかいろいろ聞いた時のこと。爺が急にしょぼくれたのだった。そしてぐちゃもちゃじゅじゅぐちゃ・・・と聞き取れないように言い訳がましいことを言い始めたのだった。それはそれまで韓国語について大きく語っていた様子とはまるで違う。
生徒は以前はたくさんいたんだけれど・・・今はみんなNOVAに行っちゃった、だから今は一人・・・今は格差時代で大変ですね・・・家賃は親戚が払ってくれているんです・・・でもそれも二年で終わりそうです・・・時代が時代だから、授業料は1時間四千円なんだけれど、7掛けでいいです。七掛けで2800円なんです・・・・・・
その時、私はこの爺の誠実さを信じた。
現実世界のことを問うととたんにモジャモジャする。爺の「生きにくかったんだろうなぁ」人生が急に私の心に入ってきた。私は好きな色の暖かい今年買ったばかりの服を着ているスタバに入る35才の女だけれど、もしかしたら今一番、この世の中で身近な感覚を持つのはこの汚い服を着たスタバのコーヒーを飲めない韓国語マニアの爺なんではないか、とすら思った。そしてそんな妄想に包まれた時、私は懐かしいような寂しいような奇妙な感情に満ちた。爺、よく生きてきたな! 鼻毛も伸びるよな! おう、私はあんたの生徒になるよ! 私は私の中では、ごく自然に、その爺の二人目の生徒になったのだった。
人はどのように変わるのだろう。私は、いつから、爺が平気になっているのだろう。
もしかしたら、私の「本質」みたいなものは、好きなことしか考えたくない男の年寄り、というものだったのだろうか。今まで、マンコ持ち! イエーイ! と言っていて、私の中の爺を封じ込め過ぎていたのだろうか。だからこそ、最強の変人爺に出会うことでしか、私の中の爺が解放されなかったのだろうか・・・とか・・・そんな妄想を楽しんでいる。
実は今日の段階でもう5時間、習っている。で。私は、「出会い」ってものの威力、みたいなものを実感しているのである。というのも・・・その爺は、韓国語を教える天才、であったのだった・・・いや、ホントに。
(続きは次回に)