ドイツから帰ってきてから3週間、十分に寝られない日が続いた。ラブピースクラブのカタログを創っていた。写真を撮り、約500点に及ぶ商品を整理し、文章を書き、その上「見目美しく」作り上げる作業を、諸々の事情が重なり一人でやることになってしまったのだ。ほぼ18時間、毎日コンピュータに向かっていた。その間に、ネコの写真展の準備をしたり(ファンソンカフェで11月24日まで展示されてまーす)。札幌や大阪にトークしに行ったり。「毎日更新」と記していた私のコラムに「ほぼ」と付け加えてみたが、その「ほぼ」もままならないほど、忙しい日々だった。
ようやく一息ついた。
全てが終わった日。連続28時間寝ていないのに全然眠くならなく、奇妙な高揚感で私はすごく元気だった。だからとりあえず、掃除機をかけ、床をぞうきんがけし、洗濯機を三回回した。服をハンガーにかけ等間隔に干した。それからエプロンをつけてネコの毛を櫛で梳いた。ネコがニャ、と甘い声を出して泣きそうになった。その後、トイレを完璧にキレイにし、布団カバーを新しくした。じわじわと、うれしさがこみ上げてきた。キャーと叫びたくなった。嬉しくてキャー! やったやったキャー! それから突然、倒れるように寝た。夢の中で、知り合いが二人死んだ。知人の死に顔が苦痛に満ちていて、怖くて目が覚めた。それでも幸福感は薄れなくて、ヘラヘラ笑いながら、また寝た。
その幸福感を味わったのが昨日。まだフワフワ感が続いている。だからこそ、だと思う今日の不思議な出会いを記そう。
よく知っている道を歩いていたら、ふだん全く気がつかなかった古いビルが目に入った。そのビルの扉に「韓国語教えます」との手書きのポスターが貼ってあった。大きなビルの間に挟まれた、崩れそうな三階建ての・・・ビル、というよりはコンクリートの小屋。
恐る恐る、扉を開けてみたら。いきなり目の前に急な階段が迫っていた。外から見てもゆがんでいるビルの中がゆがんでいないわけもなく、その階段は一段一段がグチャグチャに結びついているようで、下から見上げると気持ち悪くなるようなバランスの悪さだった。その上、階段には黴びている段ボールがところ狭しといくつも積まれていて、とてもじゃないが登れるわけがないだろう! と、誰に、というわけでもなくツッコミを入れたくなるような不気味さが漂っていた。この階段を見たら扉を静かに閉め背を向けるのが「フツーの精神状態」の人々の対応であろう。
ところが、私はたまたま「幸福感」のただ中にいたものだから、思わずトントントンと階段を駆け上がってしまったのだった。幸福感とは人をとてつもなく「軽く」するのだと思う。どんなことも今の私ならば楽しめる、という根拠のない絶対的な自信で私はゆがんだビルの中、人気の全く感じられないそのビルの中に入っていったのだった。で、その階段は上れば上るほど段ボールやCDやなにか分からない鉄の棒やら古い機械などで占領されてゆき、しまいには横歩きしなければならないほど狭くなったところを曲がったところに、その韓国語教室があった。
すみません・・・
と小さくそのドアに小さく声をかけると、あまりの物の量に半分しかあかない扉の向こうから小さな爺が顔をのぞかせた。
韓国語教室はここですか・・・?
と聞くと、
はい、今掃除中ですが、ここです
とその爺が言うのだった。そして私に
何のために習いたいんですか?
と聞いてきた。
韓国人と韓国語でしゃべりたいから
と言うと、
それならば、私に習うのが一番でしょう
と大きく頷くのだった。
この会話の間、私は狭い階段に立ち、両側の壁に挟まれるようにしながら顔だけを壁から爺に向けている状況。爺のそばに行きたくても本がじゃまして動けない。爺は「今は掃除中だから・・・」(絶対ウソ)と部屋に入れてくれる気配はなく、それでも久しぶりの(たぶん、絶対)訪問者に気をよくしたのか、
とにかくここじゃ何だから、コーヒーを飲みながら話しましょう
と、私を誘ったのだった。
で、私は爺に言われるまま外に出た。私が押し出されるように階段を下り、爺が後からついて来て、あの扉を開けた。・・・するとそこはいつもとふつうの街。気がついたら爺はいなくて・・・ということはなく、爺は
マクドナルドでコーヒーを飲みましょう
と朗らかに言うのだった。
その時、私は初めて爺を同じ地平に立ち、見た。爺はあまりに小さかった。私の胸あたりに頭があった。その小さな体にピッタリの小さな顔の真ん中には、大量の鼻毛が飛び出ていた。白い鼻毛。この爺と二人でマクドナルド・・・後には引けないな、と妙な覚悟を決めながら私は、マクドナルドの隣にあるスターバックスを指さした。
スタバにしませんか? その方が、静かでしょう。
すると爺は急に笑顔を消し、おずおずとした表情で、しかししみじみとこう言うのである。
ああいうところは、コーヒーがさぞかし美味いんでしょうねぇ・・・
ハッと改めて爺の姿を見つめ直した。下から上まで、気がつかれないように見た。爺はスリッパをはいていた。何年も取り替えていない灰色のズボンに、洗濯しすぎて薄くなった茶色のシャツを二枚重ね着していた。たぶん、その爺を見た人の多くは彼をホームレスと思うだろう。マクドナルドのコーヒーは100円。スタバのコーヒーは400円。・・・4倍。爺の心の声が迫ってくる。私は黙ってマクドナルドに入った。
で、この爺と私はこの後1時間近く、おしゃべりすることになってしまったのである・・・。
続きはまた次回。