昨日のコラムに何通かメール。ありがとうございました。
「何を差別と思うか」については、伏見憲明さんが『欲望問題』というタイトルで書かれている。もうすぐ発売! ということで要チェックだね。
ところで、お一人からこんなご指摘をいただきました。
"セクシュアルマイノリティを気遣って、自分のセクシュアリティの話はしない、というのが、ヘテロに期待される「リベラル」な生き方なんだろうか。そういう“状況”を求めて、セクシュアルマイノリティは運動してきたんだろうか。"
↑ これは適切な問いかけではない、と。
確かにそのとーりですー。私も問いかけたつもりはなく、そーじゃねーだろー、と言いたいがために書いたものでした。でも、誤読しやすい文章だったね、と反省。ただ、実際にラブピのメルマガの自粛は、「異性愛社会の中でヘテロがヘテロ話をすることは抑圧」という文面で行われたものでした。それはトッチー特有の感性ではなく、”運動”をしている人たちが陥る何かゆがんだ落とし穴、のように私は感じるんですね。その落とし穴とは何でしょう?
例えばモッコちゃん(私が今一緒に暮らしてる人)は、フェミのフェの字も知らないマンコ持ちでした。彼女が私のフェミ友たちに出会った時、一番初めに感じた”違和感”はこういうものだったと、ずいぶん後になってから話してくれました。
「これを言ったらこう思われちゃうんだろうな、と、そんなことを考えながら会話したのは初めてだった」
つまりは、考えていることを正直に話す前に、それを話すことは「適切か」と考えてしまいがちになる、と。
モッコちゃん自身に「フェミ」への偏見があったこともあるにせよ、私たちに「思想が違う」人に対する厳しい視線をあたえてしまいがちな面はなかったか、なんてことを思い返しました。例えば、以前、友人たちで食事をした時、その中の一人が「フェミナチだっていたっていいじゃないか。そういう思想もあってこそ、民主主義じゃない? そういう思想に負けるんだったら、フェミが間違ってたってことじゃない?」みたいなこと言ったのですが、その場にいた友人達は「二度とあいつとは会いたくない!!」と後で話していました。まぁ、発言したのが男だった、というのもあるのだけれど。・・・つまりは、そういうことだよね。
正しいこと、という視線で突き詰めていくと、自分も他人をも抑圧する力になる。私自身は、とっくに「楽しいこと」という感じで、バイブ屋を始めたつもりでいたけれど、やっぱりどこか「正しいこと」をしなければいけない、という思いがある。その「正しさ」が独善的ではないか、という猜疑心を忘れずにいなければ、と思いながら、その客観性を保ち続けるのは難しいことかもしれない。でも、正しさを疑うようであれば、突き進むこともできない。なかなか頃合いが難しい。
さて。ラブピのメルマガはまた、トッチーとトッチーのチンコとの物語、に戻りました。どうなることやら。
今日は、東京はこれから雪という。
こういう日はストーブの前で本を読みながら猫のように眠ってしまおう。