ノンフィクションライターの沢部ひとみさんが、「伝記」づくりをはじめた。
高齢の方たちへのインタビューを元に、その方たちの人生を記す仕事。
沢部さんの代表作は「百合子 ダスヴィターニヤ」(文藝春秋 1990)。ロシア文学者湯浅芳子と、作家宮本百合子の生活を描いた傑作だ。女と女が愛するということ、女二人が互いの仕事を尊重し、高めあっていく生活、そして別れ。
沢部さんはこの本を、晩年の湯浅芳子さんの元に通いつつ書いた。湯浅芳子さんは1990年94才で亡くなったが、亡くなるまでの数年間、沢部さんとはあたたかな友情で結ばれていたという。不謹慎ではあるけれど、湯浅さんがもっと早くに亡くなっていたら・・・とついつい考えてしまう。沢部さんと湯浅さんは出会うことなく、本も誕生しなかっただろう。宮本百合子との関係に「沈黙」を守っていた湯浅芳子さんの「沈黙」が破られることがあったとしても、それにはもっともっと時間が必用だっただろう。
そういう意味で、「百合子 ダスヴィターニヤ」は奇跡の本だ。湯浅さんにしてみれば孫の世代であった沢部さんだったから、そして湯浅さん自身がもう長くは生きられないことをご存知だったからこそ、この本は「語られ始めた」のだとも思う。亡くなる前に自分の人生を振り返る人、そしてその言葉をしっかりと受け止める人。二人の濃密な時間を思うだけで、私は胸の奥が熱くなる思いがする。
その沢部さんが、始めた「伝記」づくり。湯浅さんのような著名な方ではなく、市井に生きてきた人たちの「人生」を記していくという。
その話を聞き、私は自分の祖父の伝記づくりを、沢部さんに依頼した。祖父は今年93才。耳は遠いが、足腰強く、頭もしっかりし、一人暮らしで自炊している。二人きりで話すほど親しくはないが、おじいちゃんと孫娘、という関係は良好だ。私の名前をつけたのも祖父だという。初孫としての愛は十分に受けた。それでも私はこの人のことをほとんど知らない。
こんなことがあった。まだ幼稚園のころ。祖父が私をおもちゃ屋さんに連れて行ってくれた。道中、祖父が私に尋ねた。
「おじいちゃんの名前、知っているか?」
うかつっ! という言葉ではないが、そんな思いをとっさに持った。ああもう買ってもらえないかもしれない・・・おもちゃを・・・子供のずる賢さで私は黙った。案の定、祖父は答えた。
「知らない人に物を買ってもらんじゃないぞ」
その後すぐに祖父の名前は覚えたが、それでもどこかずっと「知らない人」というような距離感がある。だから数年前、祖母が亡くなった時、祖父が私に抱きついて泣い時には驚いた。
「さみしいなぁ、みの、なぁ、さみしいなぁ、ばあさん、いなくなっちゃったよ、おじいちゃん、これからもうひとりだよ」
当時、88才だった祖父のカラダはとても小さかったけれど、大声で泣くというパワフルなことをする爺ちゃんはまだまだ長生きするな、と思った。抱きつく、という感情表現をする祖父は、まだまだ心が柔らかいんだな、と嬉しくも思った。
「敢えて深まろうとはしない」
祖父との関係は、そういようなものだった。
愛憎というような強い感情を持つこともなく、ただ優しく穏やかな関係は、祖父と孫という関係だったからこそ持てたのだろう。母と父の娘、という立場だと、母と父の「男女関係」をまざまざと見せられているような息苦しさを感じることもあり、真剣に「家族ってなんですか」と人並みに苦しんだりもしたが、「祖父と孫娘」であると縁あって一緒・・・みたいな演歌のりにだってなってしまう。
さらに、祖父を通じ「家族」というものを考えなおすと、それはただの「連鎖」にすぎないことも、分かる。この連鎖が、重い鎖になることもあるだろうが、今の私にとっては、「縁あって・・・」というような緩やかな自分を過去に結びつける流れ、にしか過ぎない。だって・・・すごいよ。祖父は関東大震災を経験している世代だから、明治や江戸と簡単に精神的に結びついている。その祖父と同時代に生きている私も、祖父を通じて大正・明治・江戸につながる時間を得ることができるのだ。この連鎖を単純にさかのぼり、祖父のことを知りたいと思う気分も高まる。
沢部さんが描く伝記は、いわゆる自慢たらたらの「我が一族」「オレの人生」という自叙伝とは違う。本にするのが目的ではない。「あの世」というものを身近に感じている世代の言葉を、「この世」でしばらく生き続けなければいけない私たちが、感じる、知る、得るためのものだ。そして「物語る」人からしてみれば、もしかしたらそれは、人生に第三者の視線を受け入れ、新たに振り返る豊な時間になるかもしれない。
沢部さんが描く、祖父の「伝記」。どのように仕上がるのが、すごく楽しみだ。
連鎖、家族、そして・・・今生きる祖父と私。知りたい、感じたいことがそこにはあるだろうから。
沢部ひとみさんの伝記に興味のある方は、ぜひラブピースクラブ北原宛まで連絡してくださいね。