宮部みゆきさんの最新作「楽園」を読んだ。ちょっとだけ、と思ってペラペラページをめくっていたのだけれど、途中からあることに思い当たり、ページをめくる手が止まらなくなった。見事だ! と思った。宮部みゆきさんは、この本で映画「模倣犯」への復讐をした、と思う。復讐というより、落とし前をつけた、というべきか。
「楽園」は、「模倣犯」の続編と唄われている。主人公は、「模倣犯」にも登場した女性記者。
「模倣犯」では、”ピース”と呼ばれる男が女を十数人も殺す。「完全犯罪」を試みるピースは、自身を"天才”と信じている。その男に対し、女性記者がこう詰め寄るシーンがあった。(正確な文章じゃないです)
”あんたはただの殺人者だ、それも陳腐な模倣犯だ、自分より力のない女を殺す陳腐な男だ。”
それは「小説の中の言葉」とはいえ、大変なメッセージだと思った。まっとうな「女の目」が宮部みゆきさんにはあるんだなぁ、と泣きたくなるような感謝で、「模倣犯」を読み終わった時は放心した。
その「模倣犯」が映画になった。2002年のこと。森田芳光脚本・監督、スマップの中居くんが犯人役の・・・。聞けば、宮部みゆきさん自身が森田監督を推したという話しもあるらしい。でも・・・これが本当にヒドイ映画だった。歴史に残るヒドサと断言する。「映画」としてとか、映像がいいとか、そんなこたぁ、私にはどうでもいい。「原作」に忠実に作れ、とも思わない。ただ、「原作」から感じられる作者の思いというものを少しでも受け止める能力があれば到底つくることはできないだろうというものを、堂々とつくることができる不気味さという意味において、ヒドサの極み、というような映画だった。
小説「模倣犯」の中で、なぜ女ばかりが殺されるのか、なぜ若い女が無惨に殺されるのか、ということをこんな風な言葉で描いているシーンがあった。(手元にないので、正確じゃないです)
”メディアの中で、いつも女たちは、笑っている。名前のない女として。取り替えのきく、若い女として”
「若い女」という"記号”が氾濫するこの社会で、「若い女」が狙われ殺される。さらに被害者になった「若い女」は、「若い女」故に狙われた「過失」まで問われる。そのむごさ、不条理さに、「模倣犯」はまっとうに怒りを向けていた。
それが、映画「模倣犯」では、んなーあんんとなんと、「陳腐な模倣犯」であった殺人者の男(中居くん)が、スターになってしまったのだった。女をエロティックに殺していく頭の良い殺人鬼・・・。全て計算づくで、全て、中居くんの仕業であり、さらに最後は格好良く自爆していく・・・。悪のスター、それが、「模倣犯」の”主人公”。
さらに映像は惨かった。森田芳光監督はこれを撮りたかったのだとすら、思った。女を殺すシーン。それこそ「陳腐な模倣犯」の視線で刺激的に見せようとする「努力」が、よく見えた。そのシーンにたっぷりと時間がかかっていることが、映画を観た時の一番の恐怖だった。DVDには、確かその類の映像特典がついていたと記憶する。
原作が訴えたかったこと違うと思うんですけど・・・・。っていうか、全く反対だろう!!!
映画を観て、私は叫んだ。心の底から叫んだ。私のような一読者がフィルムを切り刻みたくなるんだから、作者の宮部みゆきさんの心中は・・・と思うと、勝手に胸が張り裂けた。さらに、不信感が沸いた。
「もしかして、男の多くは、小説『模倣犯』を、誤読しているのか?」
こんな映画が堂々と作られるのだとしたら、それこそが「若い女」が殺される全ての理由じゃないか、という気持にすらなった。「若い女」という"記号”に溢れた社会を批判した小説が、批判したソノモノになって増殖していく。その不気味さを何と表現したらよいだろう。
断っておくけれど・・・私、映画と現実、小説と現実の区別はついているつもりです・・・。ただこの「模倣犯」に限っては・・・・・限っては・・・・!!!
ああ。あまりの怒りで、興奮してきた。
で。「楽園」である。
そう。宮部みゆきさんが映画「模倣犯」について何かを記したことがあるのかどうかは知らないのだけれど、それでも、やっぱり映画「模倣犯」を、どうにかして批判したい、という思いがあったんじゃないかと、「楽園」を読んで思う。
「楽園」は、「模倣犯事件」で深く心に傷を負った女性記者が主人公だ。物語の中で彼女は、「模倣犯事件(小説の中のね)」に関わった人物として、マスコミで大きく取り上げられ、一時期有名になったことが説明されている。「模倣犯事件」は社会現象になり、多くの人が事件について本を書き、映画にもなった。それらのほとんどが「天才犯罪者」である男を主人公にしたものだった。しかし、当の彼女は、本を書くことはしなかった。できなかったのである。事件から受けた傷があまりにも深く・・・。
ある日、彼女は警察に勤める若い女性に出会う。そして彼女からこう言われる。
「私は怒っているんです。なぜ、あなたはあの事件を、あなたの手で本にしなかったのか」と。以下、「楽園」から抜粋。
「わたしは網川(模倣犯の名前ね)のことなんかどうでもよかった。彼のことなんか知りたくもありません。でも、被害者の女性たちのことは書いてほしかった。あなたに、前畑さん(女性記者)あなたに書いてほしかったんです。あなたはあの事件に関わり、あの事件に幕を引きました。そしてあなたは女性です。殺される側の性であるあなたに、殺された人たちのことを書いてほしかった。あなたにはその責任があったと思いませんか」
殺人者の男が主人公なのではない、あれは「殺される女たち」が主人公だったのだと、宮部みゆきさんは、小説の中で再度声を上げたのではないかと、このシーンを読んで思う。
繰り返し言うが、現実と小説の区別はついてます・・・そのつもり。でも、上記のような「セリフ」の必然性、ひいては、「楽園」が、「模倣犯」の続きである必然性も、実はないんじゃないかと思わせるようなそんな物語で、それでも敢えて小説「模倣犯」の小説中事件を引っ張ってまで、このセリフを登場人物に言わせた思いとは何なのか、なんてことを考えてしまう。それはやっぱり。映画「模倣犯」が描いた「スマートな殺人者」と「ただただ悲惨に殺されるしかない愚かな女たち」の物語に、宮部みゆきさんは責任を感じられていたのではないか。だからこそ、自らの作品の中で落とし前をつけたのではないか、と。
「楽園」には、再び、女を拉致し、意味もなく殺し、女の子を性の対象としかみない、どうしようもない愚かな男が登場する。「ころされる側の性」として、どんな男の殺人にもロマンを持ち込まないその誠実な「女の目」が、さらに鋭く光っているように感じた。こんな「目力」を、私はきちんと持っているか。濁ってやいやしないか。失っていやしないか。おまえはどうだ、あんたはどうだ。そんなことを友だちと言い合いたいように思った。本をとじた。長い長い読書でした。