ずいぶん前のこと。会計士を探していた私に、「むかし会計事務所でアルバイトしてたよ、紹介できるよ」と声をかけてくれた友だちがいた。フリーライターで、数年前まで様々なバイトを転々としてきた人だ。
彼女と共に訪れた事務所で、会計士の男性に会った。彼は数年ぶりかに会った昔のアルバイターが懐かしかったんだろう。そういえばねぇー、なんて調子で笑いながらこんな話をしてくれた。
「もう毎日遅刻! 困っちゃう人でしたよぉ。数字もよく間違えるし、仕事できなかったよねー。今はきちんと働いている?」
ハハハー! なーんて私は大声で笑って、ふと横をみると笑っていない彼女がいた。
案の定って感じで、帰り道、彼女はその会計士さんの悪口を言い立てた。
「何年も変わらない小さい規模で、経営能力がなく、部下を指導する力もない、気分で人に当たりちらす最悪のオトコ」
とかなんとか。私に”そんなオトコ”を紹介したことを忘れて怒りまくってた。
前回も書いたが、私は「仕事ができる人」だと自分のことを信じていた。あまりにもそう信じていたあまり、「みのりちゃん・・・クビね・・・」と言われても全くもって傷つくことはなかった。なので、「昔は仕事ができなかったねぇ」と言われて笑えない彼女って・・・いったい何?? と、彼女の怒りが長い間、分からなかった。人格が否定されたわけでも、存在が否定されたわけでもない、ただ過去の事実をなぜ受け入れられないの? って。でも、ある日、ちょっとしたきっかけで気が付いた。ああそうか、あの人は「自分の存在が否定された」と感じたのだ、と。だからあそこまで怒ったのだ、と。
仕事上で注意した人に、「全否定されたっ」と泣かれたのだ。「仕事のやり方、仕事の姿勢について言ってるんだよ」と言っても通じなかった。人が人を全否定などできるはずもないのに・・・とオロオロした。で、気が付いた。
そうか、みんな「役に立っている私、仕事ができる私」でいたいんだ、と。
もちろん、私だって例外じゃないだろう。
例えば、アルバイトをクビになった時に、「うちも、厳しい状況だから・・・」とモゴモゴ申し訳なさそうに言われることなく、「あなたみたいに仕事のできない人を置いておくわけにはいきません」」とハッキリ言われたら、どうだったか。
「仕事ができる人」と私がのんきに自分を信じていられたってことは、「私はこの社会で役に立つ人間でありたい、そうあるべきだ」という、"社会の価値観”を素直に受け入れていたということだ。そのままの自分でOK、なんてことは思わずに、バリバリ働く役に立つ私でいたい、という思いがあったということなのだ。
だとしたら、「仕事ができない私」というのは、存在として無価値、と言われているに等しいと、若かった私は受け止めてしまったのではないか。「否定されたっ」「バカにするなっ」と怒り狂ったかもしれないじゃないか。
思えば、「仕事が出来る」「仕事が出来ない」という言い方が、どことなくえげつなく、どことなく実も蓋もない語調を匂わせているのも、競争社会の中でその人が役に立つ人間であるか否かを匂わせている面があるからなのかもしれない。
・・・優しい大人に囲まれていて、よかったなぁ。今なら昔のバイト先に一つずつ行って、いやいや失礼しましたっ、と菓子折の一つでも届けたいくらいだ。
彼女の悪口を聞きながら、私は地面を見て歩いていた。とても居心地の悪い時間だったことを覚えてる。
”昔のことよ”と「アハハ、バカでしたよねぇー」と笑えない彼女自身が、「私は役に立つ人間なのか?」という不安に苛まれていたんだなぁ、なんてことがようやく分かった気がした。あの時の彼女の不安に気が付くことができたならば、「なんだか怖い人・・・」とその後、彼女に少し距離を持ってしまうようなこともなかったかもしれないなぁ、なんてことも今更ながらに思ったりする。
「役に立つべき人間でありたい」という思いを強く持った、競争社会を生きてきた真面目な人ほど、仕事をすればするほど苦しくなっていく・・・そんな人が多いような気がしてる。
・・・みんな自分を肯定できるような、そんな仕事のしかたをしているだろうか。
あの時の彼女は、今、仕事を楽しんでいるだろうか。
つづきます。