●鈴香被告に死刑求刑

「死刑制度」を私はすぐに止めるべきだと思っている。ヨーロッパがそうしてるから、というのではなく、非常に甘い制度だと感じるから。死ぬことで罪を償うなんて、そんな甘いことはさせたくない。生きて苦しめ、肉体を持って苦しめ、肉体のあることの苦しみをとことん味わって苦しみのなか死んでゆけ、と思えばこそ、制度が合法的に安らかに殺してやる親切など発揮させる必要はないと思う。安らかに殺すのと、ただ生かすの、どちらが残酷というのか。

私は、宅間守という男が子どもを8人殺し死刑判決を受けすぐに死刑が執行された時に歯ぎしりした。それが「被害者感情」を代表する結論であったとしても、あんな男をすぐに殺して良かったのかと、叫びたかった。私の中で宅間守に対する思いは終わっていないというのに。あの男がこの世に対する憎しみと共に放った汚物を浴びたまま、私は宅間を失ったように思う。死刑など、甘い。甘すぎる。私は宅間守の死刑をきっかけに、全く人権主義的ではない観点からの「死刑制度反対派」の立場に立つようになっている。。。。なっていたのだが、先日、改めてまた「死刑制度」について考えさせられることが起きた。

畠山鈴香被告に死刑が求刑された。

このニュースを読んだ時、胸をどんと突かれたようなショックを味わった。味わった後に、私がなににこれほどまでショックを受けているのかと考えたが、それはこのニュースが放つ「死刑」という言葉に生々しいほどの暴力性を感じたからだろう。宅間に感じた司法の甘さが、鈴香には暴力としてみえる。暴力にしか、みえない。そんな「死刑」があるのならば、私は、人道的観点からの「死刑制度反対」を、反人道的観点からの「死刑制度反対」と両立させながら唱えていく必要があるのだ、なんてことを思う。(死刑制度は・・・難しいね。考えるたびに困難さにぶつかるよ)

だって。裁判が罪の背景を探る論理的な過程であるならば、この女に「死刑」を求刑することなど、到底考えられないのではないかと信じるから。鈴香被告のような女に死刑を求刑する、そんな検察が税金で成立していることに、私はすでに暴力の連鎖を感じてしまうから。

なぜ「暴力の連鎖」と感じるかについて、以下、以前書いた原稿を転載します。07年12月の朝日新聞「論座」に掲載されたものですが、鈴香被告の事件の背景について私なりに考えまとめたものです。
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有名な男性脚本家が、家族内でおきる事件(虐待や殺人)についてこんなことを書いていた。
「僕の想像を超えた悲しいできごとです。真剣に向き合ったり、関わり合ったりしていれば、憎しみや殺意という感情は生まれない」

男のマヌケさって罪だと思う瞬間。断言してもいいけど、こんなことを平然という女はいない。もしいるとしたら、よほど鈍い感性の持ち主か、自分にウソをつける人か、「そういう思いをしないですむ環境にある人」だけじゃないの? 例えば「畠山鈴香が犯したこと、想像すらできない」なんていう女がどれだけいるんだろう。

「掃除をしない、料理をしない、子どもが泣いてもほっておく女だった」
 以前、鈴香容疑者の元夫がテレビで話していた。まるで自分が被害者であるかのように。その男自身、掃除や料理もしたことがなく、娘の世話は妻に任せっきりだったというのに。ましてや離婚後に慰謝料を払っていないというのに。犯罪者になった「元妻」をテレビカメラの前で当然のように責める様子は、あまりにもおぞましい絵で私は思わず鈴香容疑者に同情した。
「鬼母」である鈴香容疑者の言動を証拠づけるように男の証言を利用するテレビ局側の意図も含め、こういう男の暴言こそが、鈴香を追い詰めた「正体」だったのではないかと、胸がざわざわする。

 東京都の「児童虐待の実態?」(05年東京都福祉保険局)によれば、虐待者の63.3%は実母だという。対して実父は21.6%。また定職を持つ者は男女共に都の平均を下回り、専業主婦率も平均より高い。社会との関わりが薄く、極端に限られた人間関係の中で追い詰められる母親たちが最も加害者になりやすいことを、数字は明らかにしている。当然、経済的な要因は大きい。調査によれば、虐待家庭に共通するものは「ひとり親家庭」「孤立」「経済的困難」「就労の不安定」とされる。一般的に言われる「育児疲れ」=「母親の怠慢」=「女のわがまま」が原因とされる虐待は全体の18%。

 こういう数字を無視し、育児放棄をまるで「現代の女のわがまま」のように説き、「昔の母親はエラカッタ」というような論調が目立つのは気のせいだろうか。そうそう「前世論」も、流行ってる。家族の問題も前世の因縁。全ては縁。社会や制度の問題ではなく、個人“だけ”の問題にすることで、誰が一番、安心するんでしょう。

 女の犯罪の背景には、「女ならでは味わう」女の問題がみえてくる。男女の賃金格差、母親ばかりに責任を負わせる「昔ながらの家族像」の押しつけ、男女の役割分担。「女ならでは」な問題のしわ寄せは、いま、「生きるのに十分な協力を得られない、十分な収入を得られない」母親たちに押し寄せている。

 ちなみに前述の報告書によれば、実父は虐待そのものを認められない傾向にあるという。虐待父の6割が、「これはしつけだ!」と虐待を認めていない。仮に「虐待を認めた」としても、行政などの関与を拒否してしまう。反対に、母親たちは、虐待を認め、協力や助けを求める傾向にある。「家族は俺が守る」と安易に言いたがる男性的な精神と、「家族の残酷さ」を認められない精神はどこかつながるのだろうか。自身の病に気が付かない者の病ほど、根深いものはない。その場合、家庭は暴力を温床する場でしかなくなる。

 現在、鈴香容疑者の裁判が進行中だ。裁判で明らかになっていくのは、彼女の生い立ちの壮絶さである。父親からの暴行、家に絶対的に君臨する父親の暴力に無抵抗だった母。彼女の人生の大半は被害者だった。その「被害者力」を、圧倒的な加害者になることでしか、彼女は解消できなかった。暴力の連鎖を断ち切れない、断ち切る術を持たない女の姿に決して共感することはできないが、それでも私は想像する。彼女が、その連鎖からもし、抜けられる力を持つことができていたら、と。

 暴力の連鎖を断ち切ることは、そのただ中にいる当人にしかできないこと。だからこそ、その力を失わせるような、社会的暴力、男たちの暴言、母だけを責めるようなその視線、母を追い詰める様々の要因を紐解きたいと思う。「悲しいできごとです」と郷愁にひたっている場合ではなく。女が被害者であり続けないためにも、加害者にならないためにも。
 そう。これ以上、母を責めるな。協力しろ、支援しろ。ネグレクトの母親を裁くのは、社会的要因をどこまで取り去られるか、それを問うた後にしろ。


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