●深夜の病院で

数日前から咳がとまらなくて、呼吸が浅かった。いつもの9割くらいで息をしているような状態で、一昨日の深夜、どうしても眠れなくなった。横になると、咳がとまらない。苦しい。久しぶりの喘息の発作だ。

モッコちゃん(同居人)を起こして車で病院に連れていってもらった。パジャマにパーカーをはおっただけの姿で、車の助手席で病院に向かいながら、こういう時、一人暮らしだったらどうするだろうと、目をつむる。

このあたりは夜中にタクシーがほとんど走っていない。呼吸が苦しくなった時、パジャマを着替え、タイツをはき、春の深夜の冷たい風をうけながら来ないタクシーを・・・私はきっと待たない。ハーブティーを飲んで無理にでも寝るのではないか。それでも苦しくなった時は、救急車を・・・呼べるだろうか。

「ちょっとしたことで救急車を呼ぶ患者」が問題になっている。重体の患者が病院をたらい回しにされて死亡する事件の報道と、「身勝手な患者」のニュースはたいていセットで流されるものだから、救急車を呼ぶのは気がひける。自分の「程度」は自分が決めたくても決められず、医者という人たちが判断するもの、と私はどこかで思っている。一人で電話をして、一人で救急車を呼んで、たぶん、一人で歩いて救急車に乗れるような患者は、救急車を呼んではいけない。重傷で、とてもじゃないけど患者本人が電話できる状態じゃなく、家族が慌てて電話するのが救急車であるかのように、私は思わされている。
病院に行くのにも、一人暮らしには冷たい社会・・・

と、ここまで考えて、ふと気が付いた。そうだ、自分で運転して行けばいいのだ。病院まで5,6分。運転できないこともない。
であれば、今、なぜ私はモッコちゃんを起こし、病院に連れていって、と言ったのだろう。一人で病院に行くなど思いもつかなかった自分に驚いた。ああ無自覚の依存状態!・・・というようなことを考え始めてますます呼吸が苦しくなったころ、病院に着いた。

若い男の医師は、とても誠実だった。名札をみせ、「○○と言います。今日は、私が担当します。」と挨拶からはじめた。最近はいろいろ難しいことが起きているのだな、医者も威張っていられない時代なのだな、とヒューヒュー言いながらお願いしますと、頭を下げる。点滴を入れ、吸引器を口にあてると、とたんに呼吸が楽になった。
これからは「ステロイドは結局対処療法じゃない? 体質改善しなくちゃ、病はなおらない」なんてエラソーなこと言わず、きちんとステロイドでの予防をしていくべきかもしれない、と考える。西洋医学と東洋医学の狭間。東洋医学を信じながら、西洋医学にばかり助けられている現実を認めなくてはいけないのかもしれないのかもかも・・・(とまだ往生際が悪い)。

それから、医師は問診を始めた。いくつかの質問の後に、
「最近、ストレスを感じるようなことありましたか?」
と聞かれた。
「喘息の原因の多くは、ストレスと言われています。どうですか? ありましたか?」
珍しい質問ではない。今までも喘息で病院にかかる度に聞かれてきた。簡単に答える。
「はい。ありました。」
次の質問を待っていると、医師も、なぜか私の次の言葉を待つかのように沈黙しているのである。そして促すようにこう言った。
「差し支えなければ、どんなストレスだったのか教えてください」

え? 思わず、黙った。ストレスあったか? はいあった。で終わるのではなくて? どんなストレスかだって?
うっかり・・・えー、私はライターをしておりまして・・・話が長くなりますがよいですか、と正座する自分を想像して吹き出しそうになりながら、やはり一言で答えてみた。
「仕事で」
と言った。すると真剣な目をしたその若い医師は、重要なことを書き込むかのようにカルテにこう記した。
「仕事でストレス」
そして、やっと次の質問にうつっていったのだった。

それにしても、不思議な暖かさを感じた。こんな思いをするのは病院では初めてのことだった。
「ストレスありました?」
と聞かれ
「はい、あります」
と答え次の質問にパパッと移られたとしても、私は何も思わなかっただろう。それが「フツー」の対応だと思う。
「差しつかえなければ・・・」
とその医師に問われた時、私は病室で自分の心のやわらかいところが、ピュッと開きそうになるのを感じた。そんな思い、初めてだった。

医者は患者の声を聞かない。私は今までの病院体験でそう考えるようになっていた。救急車を呼ぶのにも躊躇し、夜中に病院に行くのを「昼間混んでいるのを避けるためだろう」と思われないように、できるだけ喘息が激しくなってから病院に行くように眠れない数時間を無駄に過ごすような私は、「丁重に扱ってほしい。真剣に診てほしい」という「患者としての当たり前の要求」すら受け入れてもらえないのではないか、と、医療にはかなり不信感を持っていた。その不信感は、やはり「医療技術」としての優劣というよりは、「私という一人の人」が置き去りにされているような恐怖に近い不信感だったのだと改めて気が付く。

「この医者は、私のことを知ろうとしている」
そう感じることが「あなたこの瞬間、身を任せるしかない」患者にとって、どれほどの安心をもたらすのだろう。

帰り道。空は明るくなっていた。眠くてたまらない、というような様子のモッコちゃんにやはり運転してもらいながら(なぜ!?)、ストレス、というものについて考える。医者は、
「ストレスの原因をなくしていければいいですね」
と帰り際にそう言った。ストレスの原因はなくならないよ、と私は心の中で返した。それは「あったこと」なのだから。でも。ストレスと感じないですむ方法はあるかもね、と考える。そう考える私はかなりリラックスしているように思う。
人からもらう「一言」は、時に強いストレスになり、そして時に、ストレスから人を解放する力がある。誰かに大切に扱ってもらう、ということに、自分でも驚くほどの「感謝」というような気持ちに溢れたのだった。

と心で天使のように微笑んだ瞬間、モッコちゃんに、「ちょっと、スピード出さないでよっ」、と威張りつける自分に、また驚いたのだけれども。


INDEX
[2008/10/01]
愛せない、という罪悪感
[2008/09/24]
男女平等というルール
[2008/09/17]
ワガママなわたし
[2008/09/09]
女の候補者
[2008/09/02]
セックス・アンド・ザ・シティな夜。
[2008/08/26]
ハウスキーパー
[2008/08/20]
オトコジャパン
[2008/08/10]
お久しぶりのご挨拶。
[2008/05/30]
女の罪、男の罪
[2008/05/19]
母としてのわたし
北原みのりの書籍はコチラ
これより前のコラムを見る
▼コラム一覧へ戻る  ▲topへ