4月28日、初夏のような陽気の休日の狭間に報じられたニュース。オーストリアで24年間にわたって娘を監禁、レイプによって6人の子どもを産ませた父親(73歳)が逮捕されたという報道に、耳を疑った人も少なくないだろう。娘は18歳から地下室に閉じ込められていたそうだが、その後の調べで、それ以前から家庭内で性的暴行が加えられていたことが明らかにされた。自宅の地下という、まさに“足元”で繰り広げられていた惨劇について、地下室監禁という異様さが際立って報じられているものの、事態はすでに“地上”でも起きていたわけである。監禁そのものが重大な犯罪であるのは当然であるが、暗証番号でロックされた鉄の扉がなくても、性的虐待やレイプは起こる。そう考えれば、信じられないような外国の事件も、私たちの生活に限りなく近いできごとであるといえるだろう。
第一報がTVで報じられたとき、画面のなかでは奇妙なことが起きていた。アナウンサーが読み上げた、この猟奇的な事件に対し、居並ぶコメンテーターやゲストは、ただただ無言であったのである。もちろんTVカメラは、眉間に皺を寄せながら嫌悪感に耐える顔や、悲しみや戸惑いによって伏せられた目元、「言葉もない」というコメントを体現するような大きなため息をアップで映し出し、このニュースの衝撃を映し出してくる。しかし、スタジオには確実に、TVにはそぐわない数秒間の無言(無音)が流れていった。芸能人やらご意見番と称されるコメンテーターが並ぶ報道系芸能番組では、無駄で無用な発言が充満し、ことさら騒々しいのが一般的だ。それに比べて、この事件を報じたときのTV画面の静けさは、明らかに異様であった。私の大嫌いな『とくダネ!』の小倉智昭ですら、マヌケな顔で絶句していた。小倉智昭が口を開かないことが私の願いであったのに、口を閉ざした小倉にも嫌悪感が沸くことが明らかになった。
確かに、想像を絶するひどい事件である。四半世紀にもわたる長い期間の娘の痛みや苦しみは、それこそ「想像」という行為では、決して到達できない事実なのだと思う。思わず思考停止してしまう私たちの反応も、自然なことなのかもしれない。いつもなら「監禁」や「レイプ」のネタに狂喜乱舞する人々で溢れるインターネットの書き込みサイトですら、このニュースについては、父親の「鬼畜ぶり」を叩くだけの、きわめて“常識的な”書き込みが連なるだけだ。加害者である父親の「完璧な悪事」に対して、被害者の“落ち度”へのバッシングすら生じない。当初、「見て見ぬふりをしていたのでは?」と勘ぐられていた加害者の妻についてさえ、「気づかないのも当然」と理解をよせる良識ぶりだ。こんなふうに性的暴行の被害者が世間から同情を寄せられるなんて、めったにないことである(もちろん、ここでいう「同情」とは、あくまで自分とは別世界の人としての「不憫さ」を意味する)。
一方、同じ日、東京・渋谷の「夫バラバラ殺人」(よく考えると、なんて稚拙なネーミングなのだろう・・・)で逮捕されていた三橋歌織に懲役15年の判決が下った。“セレブ妻カオリン”のニュースは、歌織容疑者のオシャレ系容姿と夫の死体を損壊したというエグい事実のギャップ、妻の不倫疑惑に彩られ、逮捕時より報道番組のカッコウのネタとされていた。加害者となった妻は、長年、夫からのDV被害を受けており、殺意の動機もそれにかかわるものであったとされている。公判のなかで、妻の鑑定医は、DV被害等によるPTSDを主張、殺害当時は心神喪失状態であったと報告したが、裁判では妻の完全責任能力が認められ、実刑判決が下された。
こちらの報道では、“セレブ妻カオリン”を非難する声が溢れ、DV被害の影響を指摘した弁護側や鑑定医へのバッシングが高まった。妻の犯行後の「巧妙な」行動があげつらわれ、彼女がいかに「ひどい妻」であったかが報じられた。結婚して、渋谷のマンションでいい暮らしをさせてもらいながら(たとえ、そこにDVが含まれていたとしても)、外でオトコをつくり、挙句の果て(DVに耐え続けることなく)夫を殺したオンナに対して、同情する余地などないようだった。裁判の最終意見陳述の際、「自分の身は自分で守るしかなかった」と述べた妻の言葉は、「(夫に対する)謝罪の言葉は最後までなかった」(毎日新聞)という記者のペンであっけなくかき消され、謝らないオンナへの断罪が下されたのである。
娘をレイプし続けたオトコへは、誰も何も語らないのに、夫を殺したオンナへは、裁きの声が容赦なく降り注がれる。ショックのあまり「言葉もない」というピュアな態度は、あまりにもあっけなく“無言の観衆”として、オトコによる犯行を「やり過ごして」しまいかねない。声を奪われてはいけない。裁きの声がオンナだけに向けられることを、見過ごしてはいけない。