京都府舞鶴市で府立高校1年の女子(15)の遺体が見つかってから、一週間が過ぎた。15日現在、まだ犯人は見つかっていない。川沿いの雑木林に残された遺体の状況から、死因は、道路から川原へ突き落とされたあと、連れ込まれた対岸の林の中で頭部を鈍器で何度も殴られたことによる失血死と考えられているとのこと。また、着衣は散乱していたものの、性的暴行の痕跡はないと報じられている。捜査の焦点は、事件直前まで行動をともにしていたとみられる男に当てられているようだ。一方、メディア報道の視点は、もっぱら、“深夜外出した”女子が「なぜトラブルに巻き込まれたか」に注がれている。毎度のことながら、どうして女子が“オトコ”絡みで受けた犯罪被害は、「巻き込まれた」こと自体に問題があるかのように取り沙汰されるのか。渋谷の“セレブ妻カオリン”の夫は、「トラブルに巻き込まれた」から殺された、なんて言われなかったのに。DV夫こそが「トラブルを生じさせていた」にも関わらず、カオリンの一方的な憎悪と殺意と猟奇的犯行だけが問われた。DV夫との“関係性”は問題にされないのに、女子がオトコと歩いていただけで“関係性”があるものと推測される。そして、“関係をもった”被害女子のほうに、落ち度があるといわれてしまう。
殺されるまでの約2時間、深夜の山道を歩いていたと推測される被害女子の足取りは、依然、不明なことも多いし、実際の状況はわからない。この一週間では、防犯カメラに彼女と一緒にいたと思しきオトコが映っていたというニュースが追加されただけだった。そのなかで、私が気になった報道。それは、事件が報じられた直後、被害者の父親が涙ながらに見せた女子の写真のことである。
突然、変わり果てた姿となった娘について、父親は悲しみや怒りをこらえるというよりも、途方に暮れているというふうだった。全国に報じられるTVカメラの前にいるという自分の置かれた状況すら、認識できていなかったのだろう。TVには、ただひたすらに“大事な娘を失った父親”の姿があった。父親の携帯電話に送られてきたという、娘からの写真をいとおしそうに見つめながら、それをカメラに見せてくるのだった。「『かわいく撮れたから』って言って、送ってくれたんですよ。」 父親の手に握られた携帯電話に映し出された小さな写メ。決して洗練されたパパという風ではない、田舎のお父さん。彼にとっては、本当に「かわいい」娘であり、『かわいく撮れた』というその写真を、本当にかわいいと思いながら眺めていたのだろう。
しかし、お茶の間に流れたそれは、ハッキリ言えば、別段「かわいい」わけではない、ごくフツーの女子の写真であった。そしてそれは、上目遣いに、必死で瞳を開いて、口角を上げて、いかにも「カワイク」映ろうとする彼女の、痛いほどの努力を感じるものだった。そこそこ無難に撮れたに過ぎないその写真は、彼女にとっての一張羅だったのだろう。そして、父親にとってみれば、どんな写真であれ、娘が「嬉しそうにお父さんに送ってくれた写真」そのものが、なによりの宝に思えたに違いない。父親にとっての“一張羅”である娘の写真をカメラに向けられ、しかし、それを見せられた私は心が締めつけられるような苦しさを感じてしまった。なぜなら、彼女が求めた「カワイサ」と、父親がみる「かわいさ」は、悲しいほど、違うものだと思ったから。そして彼女が求めた「カワイサ」は、決して、父親のいう「かわいさ」では、満たされなかったのだろうと感じたから。彼女はきっと、自分の「カワイサ」を求めて、夜道を出かけていったのではないかと考えてしまうから。
彼女は、自分のブログに「かわいくなりたい」と書き込んでいた。不登校で、おそらく苦しい思いを抱えながらも、家庭ではごくごく平凡な“親の愛情”を受けていたのではないかと思う。少なくとも、TVカメラの前でなんの躊躇もなく「かわいい」と目を細めながら、地味顔の娘の写メを見つめる父親がいたことは確かだ。しかし、父親のいうそれは、どんな容姿であれ、うちの大事な娘、という愛情だ。でも、彼女にとっての「カワイサ」とは、写メ映りのよい、小顔に見える、カワイク見える容姿のことであったのだろう。TVに映し出された彼女の写真を見ながら、絶望的なまでの溝―それは父親と娘のあいだの溝ではなく、ありのままで受け入れられるオンナの存在価値とカワイクなければならないというオンナに課せられた市場価値の溝―を感じて、私の胸は苦しくなる。オンナという生身の身体が、一頃忘れていただけの痛みを思い出させる。彼女の痛みは、今もまだ私の身体に根付いているから。
数年前のこと。妻ゆうちゃんの携帯の待ち受け画面に設定されていた私の写真を見たとき、私は本気で、彼女が私に嫌がらせをしているのかと疑った。なぜならそれは、ネズミ色の毛玉だらけのスウェットを着てだらしない顔で笑う、あまりにも無防備で完璧なブスっぷりの写真であったから。何度もやめてくれと頼んだのに、彼女は「これが一番かわいい」と譲らない。彼女の前でしか見せることのない安心しきった顔。私たちにとって、もっとも大切な関係が映し出されたそれは、しかし、社会的には完璧なNG画像だ。こんな安らかな関係に身をおいて、家のなかでは安穏とだらしない顔で過ごせている私でも、一歩、外に出れば、オンナの顔がブランドショップ(本店)から百貨店、量販店、100円均一ショップ、無人販売、非売品(商品価値ナシ)のどこに置かれるかが決まっていることくらい、百も承知だ。ただ、そのことを気にしなくなったに過ぎない。自分が鈍感になったに過ぎない。痛みはそこにあるのに、気づかないようにしているだけなのだ。(その後、彼女の待ち受け画面は、私ではなく愛犬の写真に変わった。)
そして、殺された彼女。お気に入りのバッグに新品のサンダル姿で出かけ、夜道を歩いた女子の足には、いくつものマメができていたという。彼女の体は、足の痛みを感じていたのだろうか。「カワイサ」に追われて夜道を進む彼女の体は、もうそんな小さな痛みは感じられないほど、大きな痛みを抱えていたのかもしれない。その痛みは、あなただけのものじゃない。亡くなった彼女に伝える術はないけれど、私は見知らぬあなたにそう言いたい。犯人に殺された痛みの前にあったであろう、その痛みに対して。