一昨年暮れに渋谷区の自宅で短大生の妹を殺害、遺体を切断したとして殺人と死体損壊の罪に問われていた元予備校生の兄(23)に、27日、死体損壊を無罪とし、殺人罪のみにて懲役7年の判決が下された。この事件は、拙稿「ガサ11」(2007年8月5日)でも取り上げたが、妹を殺したうえ、死体をバラバラに刻み、乳房や尻を手元に残した兄の猟奇ぶりよりも、それを“招いた”妹の「ムカツク言動」がクローズアップされて報じられていたものである。事件直後から、家族は亡き妹(娘)についての嫌悪感を露わにし、いかに彼女が奔放で傲慢で迷惑な存在であったかを述べていたが、裁判の過程でも家族は妹(娘)の問題を糾弾し続けた。世の中にどれほどわがままな娘がいようとも、人を殺して切り刻む息子に比べれば、かなりマシではないかと素朴に思うのだが・・・。この家族にとっては、そんなにも、そんなにもカワイイ兄なのだろう。大事な、大事な息子なのだろう。それがこの事件の気持ち悪さのすべてを物語っている気がする。刑務所での“オリ暮らし”も、この家族にとっては“箱入り”息子の意味でしかないのかもしれない。
この判決において、被告が殺人の責任だけが問われ、死体をバラバラに切断していたあいだは「解離性同一性障害(多重人格)で心神喪失状態であったため」責任能力を問うことができず、死体損壊については無罪となった異例の事態に注目が集まっている。バラバラにしたのは彼であって、彼ではなかった、と。「本来の人格とは別のどう猛な人格状態にあった可能性が高い」とのことだが、妹を殺す時点でじゅうぶん「どう猛な人格状態」だと思うのだが、これいかに。精神鑑定によれば、「被害者の挑発的な言動に怒りの感情を抱き、激しい攻撃性が突出。殺害に及び、その衝撃で解離状態が生じ、遺体を損壊した」とのことだが、ここでもやはり妹の言動がすべての引き金になったものと解釈されている。しかし、考えてみれば、どんなことでも我々の感情には「きっかけ」が存在する。タンスの角に足の小指をぶつければ、一気に苛立ちが噴出し、急な下痢に見舞われれば、使用中のトイレのドアの向こうにいる見知らぬ人へ底なしの呪怨を向けたりするものだ。しかし、それがどんなに激しい感情であろうとも、また、どれほど相手のふるまいが酷いものであろうとも、自分の感情や行動を最終的に“引き受ける”のは自分自身にほかならない。
だからこそ、渋谷セレブ妻カオリン(ガサ19参照)は、DV被害に遭い続け、精神疾患をきたしたとしても、夫を殺したことや死体をバラバラにした罪を負わされることになったのではないか。正当防衛といってもおかしくない状況であると思うが、それでも彼女は自分のとった行動を懲役刑で引き受けることになった。ところが、夫殺しの妻に対する求刑懲役が20年・懲役15年であったのに比べて、妹殺しの兄へは求刑懲役14年・懲役7年という段違いの軽さ。懲役7年ということは、おそらく彼がこれまでの人生と同じように監視者に対して“イイコ”な顔をして“箱”のなかで過ごしたならば、さらに短い期間の数年後には出所可能ということだ。彼は再び、自分を不憫に思ってくれる家庭という“箱”に戻るのだろう。今さら歯科医を目指すわけにもいかないだろうから、長くツラかった浪人生活ともおさらばだ。彼のプライドを傷つける妹も、もういない。デリケートな病いを抱えた息子として、彼は丁寧にプレッシャーが取り除かれたレールに乗っかっていけばよい。判決を下した裁判長も言っていた。『気を付けるべきことは気を付け、前向きに生きていってほしい。そうすることが妹さんの死に報いることではないかと思う』と。まるで、彼へのエール。“前向きに”というけれど、彼はこれまでだって、自分の目の前しか見ていなかったのではないか。だから、目の前に立ちふさがり、ズバッと“図星のこと”を言い当てた妹を抹消したのではないか。これから彼がすべきことは、前を向くことなんかじゃない。ちゃんと後ろを振り返れよ、自分がしたことを見ろよ、過去を認めろよ。そうしてこそ初めてわかるのだ。―死に報いることなんて、どんなことをしたって不可能だということを。
加害者も家族も裁判長も、この事件を“ちょっとイイ話”にしてるんじゃないのだろうか。 精神が不安定な妹を気遣いながらも、思わず(別の人格が)彼女を殺めてしまった・・・という悲劇の主人公・兄。優しい息子がそんなにも追い詰められてしまったことに胸を痛め、自分たちのために妹(娘)を亡き者にしてくれたのだと涙を流す家族。そして、前途ある青年にエールを送る裁判長。・・・違うだろっ。
ところで、今回の判決で、解離性同一性障害が取り上げられたことで、「多重人格であればなんでも許されるのか?」という嘲笑まじりのムードも感じられなくはない。ビョーキ(精神疾患)の話は、ある意味、タブーやスティグマ(偏見)が伴うために、明言されることは少ないけれど、この病気に対する(正確には、この判決に対する)うっすらとした非難があるように思う。私自身、カウンセラーとしての仕事や病院での臨床経験のなかで、この病気をもつ人たちに出会ってきたが、ほとんどの人が複数の人格を抱えることに苦しみ、大変な苦労をしている。「別の人格」が他者を傷つけたり、困らせたりしないかと、その人の「人格」はつねに心配し、悩み、何とかしたいと思っている。「別の人格」がやったんだから仕方がない、なんて開き直る人はいない。この判決が、精神疾患をもつ人にとって有益なものになるのか、あるいは逆に、非難にさらされ、追いつめるものになるのか。判例にとどまらない、大きな課題をはらんでいると思う。