6月8日に起きた東京・秋葉原の殺傷事件。死傷者は17人にも上り、関わりのあるたくさんの人たちの人生が滅茶苦茶にされた。そして、取調べのなかで容疑者である25歳の男は、こう言ったという。「誰かに止めてほしかった。」
現実に起きたあまりにも凄惨な光景と、甘ったれた言葉のこの軽さ。今年に入ってから立て続けに起きている通り魔事件の犯人も、7年前の同じ日に起きた小学校内での児童殺傷事件の犯人も、全員、男、男、男! ある男のとった行動を「男」という性別に帰属させるのは、理論上も道義上もナンセンスなのは承知しているが、どうなの男!? と思わずにはいられない。
「男」が危険だと言いたいのではない(思ってはいるが)。女の起こした犯行は必ず「女」の狂行とみなされ、虐待すれば「鬼母」呼ばわり、殺人を犯せばファーストネームで報じられ、それが男ではなく「女」の犯行であることが強調される。例えば、鈴香被告(秋田で近所の男児と娘を殺害)、真須美被告(和歌山毒物カレー事件)、カオリン(渋谷でDV夫を殺害)など。「オンナノコ」呼ばわりに相当する「オトコノコ」呼ばわりは存在しない。子どもを殴ろうと「鬼父」なんて言われない。こうして、微に入り細に入り、陰に陽に「女」の犯行だけが取り沙汰されるのに、「男はキケン!」なんてフェミが声をあげたりすれば、「男を一緒くたにして責めるなんて、フェミは偏狭で感情的だ」と言われるに違いないのだ。
そう、まったくその通り。でも、その「偏狭で感情的」な批判に女はいつも晒されている。なのに、女が同じ批判を吐けば嗤われる。つまり、この世の中には、「男」「犯罪者」「女の犯罪者」「犯罪者と同じ女」の4種類が存在しているように思う。だから、男の「犯罪者」について、それがどんなに残忍でどんなに愚かであっても、「男」たちからすれば、彼らは自分たちとは違う「犯罪者」であり、「犯罪者」の問題は決して「男」たちの問題とは捉えないのだろう。一方、女はといえば、「犯罪者」ではなく「女の犯罪者」、そして私たちは「犯罪者と同じ女」として、虐待の責任を背負わされ、DV夫に尽くす美徳を教えられ、兄に激昂されない術を身につけなければならない。女の起こした事件について、少なくとも私は、他人事とは思えない。実際には他人事なのだけど、そう思える逃げ道がない。子育てで行きづまることはもちろん、連日夜泣きをする子どもに殺意を覚える瞬間ですら想像可能なものだ。選んだ相手がDV男だったなんてありがちなことだし、崖っぷちに立たされて理性的な判断ができる自信はない。「私は女だけど違う」なんて言えたら楽かもしれないが、「女だから」わかる、いや、わかりたいと思う気持ちがある。なのに、世の男たちは、男の起こす犯罪をどう思っているのだろう。「俺らは違う」と言い切れる、よほど「安全な」場にいるのだろうか。
それにしても、秋葉原事件の犯人の「誰かに止めてほしかった」というセリフに、私は、殺傷という行為以上の悪意を感じる。本人は悪意なく発した言葉だろう。しかし、すべてを他人のせいにし、「止めてくれなかった」周囲に罪悪感を抱かせる、脅迫行為だと思うのだ。うっすらとした脅迫をする男、けっこういませんか。頼んだ仕事がイマイチなので、再度、注文をつけると「一生懸命やったんですけど」という意味不明な主張をする男。ある申し出について断りの連絡をいれると、「僕はこの企画のためにすべてを掛けたつもりです」という熱く、うすら寒い語りを始める男。どちらも、クレームや断りを述べた私のせいにさせられた挙句、「悪いですね・・・」と、なぜかこちらが悪いことになって罪悪感を持たされ、しまいには「どうして僕ではダメなのか」となれば、もはや脅迫。彼らは共通して、ものすごく暴力的なやりかたで甘えてくる。暴力的で怖いというのと、軟弱で甘えん坊というならわかりやすいが、暴力的に甘えてくるのは一見して問題性が見えにくく、厄介である。気持ち悪いのである。
「男はキケンで、気持ち悪い」とあえて言ってみたくなる、そんな今日この頃。