昨年末と今春、自らのレイプ被害について本を著した2人の女性がいる。大藪順子さんと小林美佳さん。それぞれの本の表紙には、彼女たち自身の写真。日本において、レイプ犯罪に遭ったほとんどの被害者が名乗ることはもちろん、被害の事実すら自身の胸に抱え込まざるをえない現状のなかで、お二人による名前と顔を出しての出版は大きな反響を呼んだ。大藪さんも小林さんも、はっきりとこう述べている。「私が悪いわけではない」「私は何ひとつ、恥ずかしいことも悪いこともしていない」―悪いのは被害者ではなく加害者であり、恥ずべきなのも被害者ではなく加害者である。しかし、この当たり前の事実を“被害者”に叫ばせてしまうのは誰なのだろう。彼女たちのこの言葉は、誰に向けて発せられたものなのだろう。彼女たちを苦しめてきた相手は、レイプ犯だけではない。シンポジウムで被害経験について語り、マスコミの取材に応じた小林さんに対して、彼女の父親は彼女に「恥知らず」と言い、母親は「もう誰にも話さないでちょうだいね」と頼んだという。両親とのこのやりとりは、彼女にとって大きなわだかまりとなりながらも、やがて彼女は事件後に親自身が抱えてきた苦しみに気づいていく。両親もまた傷つき、娘を“守りたい”と考えていたのだと。誰から娘を守ろうとしたのか―それは、実は、彼女たちの本を手にする私たちを含めた、社会のあらゆる人々からなのではないか。「自分の被害体験をあからさまに書くなんてはしたない」と彼女たちの“選択”に眉をしかめる人も、「すごい、実名を出しているんだ」と彼女たちの“勇気”に敬意をもつ人も、そのあとに続く言葉が「私にはできない(私だったらしない)」というものであれば、結局、両者は同じ立場なのかもしれない。レイプ被害者と私は違う、という立場。“違う”という分断を作り続ける私たちの姿勢こそが、彼女たちに問われているのかもしれない。2冊の本の表紙にある彼女たちの写真は、本を手にとる人をまっすぐに見据えている。私自身を問うこと、を考えさせられた力強い本である。
レイプ被害者の声は、これまで社会のなかで語られることが極めて少なかった。こうした状況において、大藪さんと小林さんの本は、レイプ被害が実際に起きているという現実やレイプ被害者が存在するという事実を社会に知らしめ(しばしば、犯罪が「起きている」ことと被害者が「存在する」という認識にはズレが起こりがちである)、被害者自身ができごとをどう捉え、その後の人生をどう過ごしているかという「生きざま」を見せてくれた。レイプによって、人生は大きく壊されたとしても、終わるわけではない。レイプ被害に遭うことによる“傷つき”は知られつつあっても、被害者が“生きていく”という現実について、私たちはまだ多くを知らずにいる。レイプ被害者について、ある人は泣きながら怯える“弱い”姿を想像するかもしれないし、ある人は犯人や社会に向かって立ち向かう“強い”姿をイメージするかもしれない。それらは時に、ステレオタイプにあてはめられたものであったり、一方的に寄せる期待であったりする。彼女(彼)らの「生きざま」は、弱いとか強いとか、表面的に捉えられるようなものではない。その当たり前の現実を、彼女たちの声は教えてくれる。しかし、数多くの被害者が存在し、その後も生き続けるという現実に反して、被害者の声が社会に届けられることはほとんどない。
例えば、多くの小説では、レイプ被害者は“声なき者”として描かれる。そして、その“声”を代弁するのは、レイプ犯や被害者の家族、家族の同僚といったオトコたちである。レイプはオトコが語るもの、という古典的で典型的なスタイルは今も健在だ。ちょうど小林さんの『性犯罪被害にあうということ』(朝日新聞出版)が出されたのと同じ今春、文庫本『さまよう刃』(東野圭吾著、角川文庫)が出版された。5月末に文庫本が出版されてから1ヶ月余り、大手書店では文庫本売り上げランキング1位をキープし続けている。帯には「正義とは何か。犯罪被害者の叫びを聞け。」とある。単行本が刊行された2004年は、犯罪被害者等基本法が制定された年。まさに時流に乗ったテーマである。犯罪被害者の心情を「社会派サスペンス」(帯に記載)に仕立て、小説を楽しみながらも社会問題を考える契機とさせるストーリー展開は、売れっ子ライターの腕によるものだろう。実際、この小説は極めて重いテーマを扱いながらも、非常に読みやすい。いい意味でも悪い意味でも、軽いのだ。(軽かろうと、読者にページを進ませる筆力があるという点では力量のある小説家なのだろうが、類似のテーマを描いた宮部みゆき氏の「模倣犯」に比べると、娯楽本のレベルを脱せないと思う。) ともあれ、『さまよう刃』が取り上げる犯罪被害とはレイプである。犯人は未成年であり、計画的な集団暴行という“もっとも悪質な”事件が描かれる。
妻を亡くし、高校1年生になった娘と暮らす父親が主人公である。娘の安全のために、彼女が小学生のときから携帯電話を持たせ、事件が起きた夏祭りの夜も、娘の遅い帰宅を心配しながら、娘の成長を尊重しようとじっと待ちわびる、いかにもよき父親である。ところが、夏祭りからの帰り、最寄り駅から自宅に向かう夜道で、娘はドラッグを嗅がされ、少年3人の乗る車に引きずりこまれて連れ去られる。少年が暮らすアパートでレイプされたうえ、再び与えられたドラッグの投与過多により殺されてしまう。現場となったアパートは、グレた息子に手を焼いた母親があてがった部屋であった。少年らのうち、事態に怯えた一人が秘密に耐えかね(たんに自らの保身のためだが)情報を流したことにより、父親は犯行現場を突き止める。そして、室内のビデオに残されていた、娘の残忍なレイプシーンを見た父親は、怒りと興奮のあまり部屋に戻ってきた犯人を惨殺し、逃亡する。小説は、その後、父親の逃亡劇として警察とのデッドヒートが繰り広げられる。「なんの落ち度のない純粋な被害者」と「娘の復讐を果たすよき父親」、そして「あまりにも残忍な少年の愚行」のコントラストによって、世論は逃亡する父親に味方し、殺人犯としての父親を捜査する警察もまた葛藤を覚えながら追走する。読み手は、小説のなかで描かれる「世論」とともに、父親の正義を支え、絶対悪(少年)を糾弾する。そして、ラストシーンは、逃げていた加害少年、少年を突き止め銃口を向ける父親、そして父親を追ってきた警察の三者が居合わせ、そして――となる。
レイプという犯罪の惨たらしさ、被害者の受ける精神や身体の痛みと屈辱、そして被害者の周囲の人々の苦悩や二次被害など、レイプにまつわるさまざまな事柄が描かれ、レイプが許されない犯罪であることを強烈に訴えてくる物語である。しかし、物語はあくまでも“父親”対“少年”、そして“父親”対“警察”のオトコ同士の闘いに終始する。被害者は結局、ビデオの中で、ドラッグを打たれ涎を垂らしながらレイプされつづける姿でしか現れない。もちろん、被害者の“声”を奪われることこそが、この犯罪のもっとも非道なところともいえるだろう。しかし、その彼女の“声”は、父親であろうと代弁できるものではない。しかも、娘の身に起きたことは「蹂躙された」という父親の表現で語られる。娘を「蹂躙された」ことのオトコの怒りとオトコの正義。法を待たずに制裁を下す、オトコにとっての社会の掟。
小説の後半、加害少年を“助ける”女子が登場する。実は、彼女も以前、その少年にレイプをされ、ビデオに撮られた被害者だ。加害少年の逃亡を手伝うことを強いられ、彼を“手伝った”被害女子に、警察は「若い女の考えていることはわかんねえよ」と言い捨てる。彼女が少年の手伝いをさせられたのは、明らかに、少年の脅迫によるものであるにもかかわらず、警察と関わるのを面倒に感じた女子が少年をかくまった行動をみるや、警察(オトコ)はこの女子を、何の迷いもなく「愚かなオンナ(若い女)」と決めつける。彼女に対する尊厳などどこにもない。まるで、加害少年と同じ目線。レイプ被害に遭っても、「落ち度のない娘」と「愚かな娘」は、同じ “被害者”とはみなされない。“被害者”であるかどうかは、オトコによって決められる。
オトコが語るレイプ小説が流行するなかで、大藪さんと小林さんが「自らの声」を上げたことは、やはり、とても大きなことだと思うのだ。
※文中で紹介した大藪順子さんの著書は『STAND 立ち上がる選択』(Forest Books)