| まろんじる19 |
「まろんず・セラピー」 くりとりーぬ |
今日は、『まろんずデー』だった。
まろんずデーというのは、まろんず2人でのネタづくり、衣装づくり、パフォーマンス
練習を中心とする活動日のことであり、それに加えて、青年期後期の自己確立、および
、大学院での研究推進・論文作成を目指す自助(セルフヘルプ)グループの機能も併せ
持つ。
自助グループといいつつ、まろんずデーこそ、研究業績の重大な阻害要因の一つとなり
つつある現実の矛盾にあえて目をつむる勇気を持ち、アジト化しているゆきの宅の部屋
の散らかり具合にもあえて目をつむる寛容さを持ち、まろんずデーが開催される。
週末のイベントまでわずか数日を残し、いつも通りのギリギリまろんず。
寝起き覚めやらぬままゆきの宅へ向かうと(しかし、時すでに昼)、ノーメイクのゆき
のと、部屋に居並ぶ造作マンコの数々が迎えてくれる。
地元の日用雑貨店の紙粘土をほぼ買い占めたと思われる膨大な量の紙粘土により、ゆき
のが精魂込めて創作したヒダヒダつき立体マンコは、圧巻であり、見るものに感動を与
える。人間、やればこんなこと“までも”できる。しかも、数が増えるにつれ、確実に
スキルアップしている事実は、オンナのキャリアアップを象徴するプロセスともいえよ
う。
今回のショーのために新たにゆきのが腕をふるったニュー・マンコは、直径30cmはあ
ろう、呆れるほどバカでかい逸品、計2ケであった。
ゆきの用マンコはすでに着色済みであり、キュートなピンクが毒々しい。
くりとりーぬの筆による彩色を今や遅しと待ちわびるかに見える純白のくり用マンコは
、その清楚な色彩と裏腹に、無駄な勢いで広がりをみせる肉厚な陰唇と、憎々しいほど
肥大したクリトリスが、無意味な程に存在感をアピールしている。
くりとりーぬは、深く息をつくと、眼下の巨大マンコと静かに対峙し、そして筆をとっ
た。
まずは色づくり。繊細な色彩感覚と美的センスが試される瞬間だ。
中学時代、卓球部と兼部して入っていた元・美術部としての経験を、いかんなく発揮す
べき時がきた。ダンスはダメだが、エロ・セル画には自信がある。
ひまわり型パレットに絵の具を絞ると、魂を込め、筆の毛先を振動させる。届け、魂よ
。
しかし、くりの脇で衣装縫いをしていたゆきのじょー。パレットを一瞥し、「泡、立て
ちゃダメですよ」。見れば、パレットからはみ出さんばかりに、泡立つ水性絵の具。「
そういうつもりはないんだよ」−意味不明な言い訳を口篭もりつつ、着色開始。
ゆきののマンコが、ほのかに淡い桜色のスウィートなマンコに仕上がったのに対し、そ
れを真似たつもりの私のピンクは、アダルトな深紅とゴージャスなバイオレットを半端
に白でぼかした、微妙な色合いとなり、さらに、絵の具の乾きを待たずに重ねた新たな
色が、紙粘土マンコの上で、予定外の色彩のハーモニーを織り出す。さながら、マンコ
上のオーケストラだ。
その私のイメージをゆうに超える、ダイナミックで大胆なケバ・マンコの完成であった
。
元美術部(兼部)という私のチンケな小手先のテクニックに対し、マンコのなんと雄大
なスケールよ。なんと、深い懐よ。マンコというより、深海のイソギンチャク(※磯の
生き物)。イソギンチャクというより、食虫植物。
バイタリティと野性味をあふれるマンコを前に、くりとりーぬは改めてマンコの奥深さ
にひれ伏したのであった。
それにしても、久々の工作。単純に、おもしろい。
肉厚ヒダヒダ陰唇の先端を、さらにダークなチェリーピンクで縁取っていくと、さなが
ら連なる山々にそびえたつ万里の長城の如し。直径30cm大のマンコは、私のイメージ
の中で、壮大な大自然のパノラマとなり、悠久の歴史の中に己の生命が息づくことを感
じる。
「・・・万里の長城みたい」。思わずつぶやくくりとりーぬに、ゆきのじょー。「また、
そうやって、歴史的チンコ権力の象徴を!他民族の排斥!!」と一蹴。
うぅむ、確かに。チンコ的権力志向に傾きがちな私。でも、実際、イメージってもっと
広がりのあるもの。
こんなふうにモノを作るなかでイメージしていくことは、心理療法の中でもしばしば用
いられるのだ。(注:通常、カウンセリングの中でこんな風にマンコを使うことはあり
ません。念のため。)
何かをつくることは、まず、カタルシス効果をもたらす。リフレッシュする、というや
つだ。
指先で触れたり、身体を動かすということは、心理的な面もリラックスさせる。とくに
、フワフワしたものや、粘土や砂を触ることは、適度な退行を促すのに有効だ。「つい
、童心に返る」という感じ。無心で、自分中心になること。それを治療の中で活用する
のが、さまざまなセラピーなのだ。
何かをつくるという作業は、もちろん意識的な行為だし、「よいものを作ろう」とか「
こんなものを作りたい」という意思や考えにより、形づくられていく。けれど、そうし
た理性的な作業の中で、その行為に安心して取り組み、没頭する間の時間は、同時に無
意識の働きも活発になる。だから、何かをつくる−例えば、絵画や人形遊びや、箱庭と
呼ばれる一定の大きさの砂場にフィギアを自由に置いてみること−、そんな遊戯(プレ
イ)の中には、その人自身の無意識、イメージや感情が表現されやすくなるのだ。
最近は、こうした心理療法のエッセンスが一般に取り入れるようになってきており、事
件や事故の後に、子どもに絵を描かせたりすることをよく聞く。しかし、肝心なのは、
その遊戯によって無意識の世界は、「画用紙」の中や、「箱庭」の中や、「面接室」の
中という、枠の中でちゃんと扱われてこそ、安全に表出され得るということ。ショック
の大きい場合、闇雲にプレイをさせるのは、実はとてもアヤウイことなのだ。
けれど、こうしたプレイは、自分の意外な一面を知ったり、リラックスするのに有効だ
。
まろんずデーも私にとっては、こんな癒しの効果もある・・・と思いたいけど、まろんず
デーによる締め切り過ぎ原稿の堆積は、私の最も大きなストレス源となっている。
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