一つの星が輝きを終えるまえ、さらにいっそうの輝きを増すという。それは想像するに、狂い光りというか、爛熟というか、ある種健全でない不自然な輝きなのではなかろうか。
女子プロレス、90年代の対抗戦「ブーム」のときも、それと同じようななにか無理矢理感があった。どこか危なっかしさを感じさせる派手さ。裏では深刻な状態が進んでいるのだけれども、それには目を向けようとせず、とりあえず盛り上がってうまくいってるようにみえるから、都合の悪いところでは思考停止状態になり、日々の客が入っているからそれでいい、と。先を考えない妙な安楽感、心地よさにくるまれて、アルマジロみたいに丸まって目をつぶる。そこは決して安住の地ではないのに。その一瞬先の奈落は少し思いを致せばわかるのに。でも目をあけようとはしない。寝返りをうつばかりで立ち上がろうとしない。
当時、旬を迎えていた選手というのは、ピークからすでに山をおりかけていた選手ばかり。新しいスター、若いスターは少なかった。このとき、育成策を本気になって考えればよかったのだ。足腰を強くすることを。育成システムも近代化すべきだった。
ものがあふれて安易に生きられるいま、時代のハングリー度がどんどん低くなっているのに、この業界だけは昔とかわらぬそれを要求される。みんな自分のハードルを平気で下げる。あきらめる。どでかい夢を持たない。ここまでいったからいい、とあっさり引退してしまう。こんな思いが続くのなら、と。無理して上をめざさなくってもいいや。って。その変わりゆく少女たちの気質をくみ取って、それでもなおかつ続けたくなるようにすべきだった。
けれどもあのときは、目先の豪華絢爛に惑わされていた。客も興行主も。日銭が入ってくればそれでよかった。
長期的な視野が欠けているのだ。ビジネスだって競技スポーツだって、今日明日のご飯だけじゃなくて、10年後20年後を考えるだろう。当たり前のことだ。だから10年前にはぼろぼろに弱っちくて、強くなる日なんて永遠にこないと思われた日本の五輪スポーツがいつの間にかメダルラッシュになっていたりするんだから。
真新しくて、豪華、なような気がしていた対抗戦全盛期は、ただ単に今までなかった組み合わせをやる、という物珍しさと、団体を背負っているという緊迫感と殺伐としたムードが人をひきつけはした。同じ土俵でたたかったら実際誰が一番強いのか、輝くのかをみたい、という野次馬根性も満たしてくれた。だが、その先、は欠落していた。数回みればそれでよかった。
それに、それまでのような「スター」はいなかった。たしかに神取忍がいた、北斗晶がいた。けれども、観客は彼女それぞれ一人を見たかったというよりも、ライバルの物語が見たかったのだ。それこそが対抗戦の醍醐味だったわけだ。神取すなわち女格闘王あるいはミスター女子プロレスも、北斗のデンジャラス・クイーンもアクが強すぎて広く共感をよぶタイプではなかった*。それはそれで魅力だったんだけどね。
北斗が神取とのライバル物語を勝ち抜き、東京ドームでの「この大会で引退」と表明したうえでのトーナメントを勝ち抜いて優勝したとき、北斗は半ば呆然と、半ばうろたえて「みんな、あたしの姿がまだみたいか」とマイクに向かって力無くいった。強気で派手なマイクパフォーマンスは超一流、といわれた北斗は、どうしようもなく狼狽していた。私はその光景を2万円以上はたいて入手したアリーナシートの片隅で見ながら、思った。「これで対抗戦の時代も終わりだな」と。
物語、がなければ彼女はやっていけなかったわけで、その物語がエスカレートしていくとやがて「引退」にいきつく。
衝撃的ではあるが一度しか切れず、二度以上使うと逆効果になるこのカード。でも、その禁断の味に麻薬のように溺れる者が多い。大仁田厚しかり、アントニオ猪木しかり。どんどん効果が薄まりあきれられ、嘲笑され、それでもなお、その手を使うしか、物語を描けなくなってしまう。
安売りの引退こそ狂った爛熟ぶりを象徴するものはない。
北斗も引退が何を意味するのか、吟味しないままに表明したものだから、やはり撤回。あ、そのあと一度引退して復帰したんだったっけかなどーだったかな。という具合に印象が薄まって記憶に残らないほどの出来事になり下がってしまうのだ。それまでの闘いや彼女の生き方が鮮烈で強烈であればあるほど、その逡巡と韜晦は無様で惨めに映る。
閑話休題。対抗戦の味も薄れ、そうこうする間に選手は次々に引退、だが選手の供給は少ない。新世紀以降、女子プロレスは団体がさらに分裂、細分化し、しかしファンの総数は増えなかったものだから、それぞれがなんとか青息吐息で興行を続けている状態だ。
いま、女の生き方は多様化して、20年前30年前に比べたら「なりたいもの」に容易に手が伸びる状態になった。はるかに選択肢が増えたのだ。そうなると、「常識」や「あるべき女像」をぶち破った女子プロレスに以前よりもカタルシスや爽快感が減ってみえ、輝きが失われるのかもしれない。そこに業界の努力や工夫の足りなさが輪をかけて、どうしようもない袋小路に入り込んでいる。
もう未来はないのか。女子プロレスはこのままスターを生み出せず、絶滅するしかないのか。
否。といいたい。
逸材、原石はいる。HIKARU、西尾美香。磨き方次第だろう。男役的キャラのHIKARUに対し、女の匂いをぷんぷんとさせる西尾。まったく正反対のキャラクターなのだから、物語をつくっていくことが可能なのだ(今でもつくっているつもりなのかもしれないが、きわめて中途半端だ)。テクニックもトークもまだまだだが、右肩上がりということでもある。
実力ではぴかいちの里村芽衣子も地味さを払拭できないが、それが持ち味でもあるし、その裏腹のストイックな求道ぶりが魅力でもある。彼女は今度仙台で女子プロレスを旗揚げするという。「らしい」行き方だ。
ヴェテラン組、ハーレーだって25周年を迎えた立野記代だって、ジャガーもデビルさまも健在だ。古くからのファンには芸達者な彼女たちの存在だけでうれしい。
多様化、と、カリスマ的スターというのは相反することではあるが、可能性がそれだけ増えるということでもあるのだ。ある意味今はチャンスなのだ。人材だっている。タイプの違うこれだけの選手がそろったのは10年ぶりくらいではないのか。ピンチだからこそ出る力もある。ピンチはチャンス。女子プロレスは消えない。消えさせない。
*引退後、得たいのしれない毒気がなくなり、「鬼嫁」という一般的な恐妻さんになった北斗が「お茶の間」に浸透しつつあるのはだから当然なのだ