2001/9/11〜2002/4/2
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VOL009:第三章 水子信仰構造の具体的諸層について
<3> 宗教運動の側面から

A 政治的な場での水子信仰のはじまり
「水子信仰」の発端は、「生長の家」谷口雅春(1959年創立)による。
彼は「大正維新」運動にかかわり、「大正生命主義」(大正時代から昭和初頭にかけて中心となる思想。「生命」が強力なキーコンセプトであった。そのためこの時代も宗教ブームで、多くの新宗教が発生した。年間99の宗教が生まれたこともあった。『生長の家』はこの流れから出発した)を信条としていた。
「生長の家」は、儒教、仏教(密教)、神道、キリスト教、現象学、心理学、習俗など東西の霊言を習合した創立宗教である。教理には、唯心論、反科学、反近代、ナショナリズムという古典的=逆にポストモダンな要素があり、1970年代以降の世界的な宗教復活の潮流と軌を一にする。
単なる前近代への懐古にあるのではなく、出版物による布教形式や、運動の様式などは、近代的な様式を採用しているファンダメンタルな宗教である。

「生長の家」は、古典宗教のように「救い」を彼岸にもとめるのではなく、この世の「幸福の追求」を目指す。
伝統的な「家の宗旨」から離れ、個人的に谷口の霊言(出版物)によって救いが得られるという近代性が新都市市民に受け入れられたと言えるし、その「天皇信仰」による家族イデオロギーの強調が、大衆の、とりわけ当時の専業主婦のロマンチシズムを取り込んだと言える。
また一方で、保守政治家たち(鳩山一郎、中曽根康弘など)と関係を結び、政治的に運動を達成しようとした。

出発は昭和の初頭にある。
変動する都市中産階級の女性たちの結婚、子育てなど、近代化にともなる過程の悩みを布教の対象にして、拡大していった。
女性信者のために「白鳩会」を結成。(1936年)この会の第一の目標は「真の女性らしさ」の復権であり、聖婚の実現と快楽の性の否定、純潔の回復、女性の「精神的自立」をモットーにしている。(1953年、全国大会)。
その一方で、布教を通じ、「女性の社会進出」を保証した。

会の運動は、生命主義にもとづいた「生活難を理由に、避妊、堕胎はすべきではない」(1952年に『100万人の児童を救う運動を起こせ』と提唱)という主張から、「人口流産堕胎防止」運動が開始された。(1959年)
この運動は、52万人の「優性保護法改正」の請願署名簿の政府提出(1960年)と外郭団体をも組織した「人命尊重推進委員会」を発足(1961年)させた。
その一方、一般女性を対象に、「こどもの命を守る会」を血清。こちらは200万の請願署名を政府に提出した。
そして、社会浄化、保守改革の目標として、玉置和郎を中心に、「日本宗教政治連盟」を結成(1956年)し、参院選で2名を当選させる。(1959年)。

「生長の家」のこれらの運動によって、「胎児の生命」という言葉が定着した。
「おなかの子」は、胎児と母体が分化したものとして、女たちに意識されるようになり、個別化した胎児の中絶は、「こどもの死」となり、「子殺し」というイメージが広がった。

同時に、生長の家の宇治宝蔵神社で、「全国流産児無縁霊供養塔」(1961年)において、「施餓大供養祭」(1969年)がもよおされ、谷口雅春が流産児を祀る祝詞を奉上した。
祝詞で彼は、

汝たち 流産せしめたる父母を呪うことなかれ
汝の父母は 決して汝等に危害を与えたるにあらざれば
人工流産せる父母を恨むことなく
感謝の念に満たされて
今後霊界において
「我、高級霊なり、神通自在になり 何ぞ地上の人類に禍をなさんや」
と念じたまえ(中略)
汝らの悟りを賛美して玉串を奉る

と祈った。

ここに「恨霊児」を祀る儀礼がうまれた。
「敗者の怨霊」を鎮める靖国等とおなじ伝統的政治儀礼である。
男性原理、即ち、支配者側の宗教観によるものであり、国家-父権からの胎児の位置づけとなる宗教儀礼であった。
この段階では「水子供養」はまだ政治の方便だったが、このことによって「水子供養」の価値観や位置、機能がつくりだされ、「意味の形成」となっていく。

優生保護法改正案は、1964年に審議未了となり、廃案になったが、生長の家はこの失敗から、新たに玉置和郎を中心に、政治派閥結成を目指して政治結社「生長の家政治連合」を結成する(1964年)。さらに、「生長の家政治国会議員連盟」の結成(1975年)。

為政者側は、この宗教運動により、「中絶法」でゆれる外国と足並みをそろえることができ、それ以降、「胎児生命尊重」をスローガンにして、外国の中絶禁止を唱える宗教的保守派(特にアメリカ)とも共同歩調をとることになる。

1982年、「生長の家」は、中絶条項の「経済的理由」の削除を条件にした「優性保護法改正案」の再上程をめざして、運動を開始する。
米国大統領レーガンの「国家祈祷朝食会」に反中絶派のメンバーを送り、「モラル・マジョリティ」(1979年設立)と連帯し、その後は西欧諸国や米国政治の影響をうけ、キリスト教的胎児解釈や、教会の伝統的論争を、自分たちの教理・運動に習合させた。

1983年に米国で開かれた反中絶運動の歴史的大イベントであった「生命尊重全米大会」には、村上正邦議員ら出席。レーガンを筆頭に、いわば右翼国際連合が達成されたが、この影響は日本に及び、水子供養は霊友会、立正佼正会、パーフェクトリバティなど霊魂への回向祈祷を宗旨とする新宗教の方針に取り入れられた。

また国会(1982年3月)の参議院予算委員会では、村上正邦議員が鈴木首相に「刑法212条」「水子の詩」を読み上げ「葬り去られた胎児のみたまに懺悔し、みたま鎮まれと祈り、合掌しつつ、本論に入らせていただきます」とキリスト教の祈祷を真似て祈った。

法観念の東西の違いや、政治や法律とモラルとの違いという問題は不問のままに、女性たちへの「中絶=殺人」キャンペーンは浸透した。
この後ろにはテレビや週刊誌や新聞の「胎児の生命」「水子供養」「水子寺」についての連日に及ぶ報道があった。政治と結びついたマスコミが「中絶反対」運動推進のための思潮をつくりだし、女性攻撃の役割を果たした。

マスコミの報道に脅された女たちは、寺に水子霊の回向を求めた。
寺院は闇に埋もれていた「水子霊」という新商品を発見し、経営戦略の目玉にした。

水子供養は、このように政治の表舞台と直結する公の宗教、天皇信仰とむすびついた「まつりごと」としてはじまったが、これに対し、多重層構造である「日本宗教」の下部、民族信仰によって水子儀礼を開発し、大衆の救済祈願を利用し、水子ブームのきっかけをつくったのは、橋本徹馬である。

彼は、直接的に政治運動を志したのではなかったが「日本宗教」の一パターンであるエリート主義による大衆(女性)支配という政治色の濃い宗教活動であった。


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