男に対しては、不信感的な嫌悪感もあるけれど、身体感覚としての嫌悪感もある…、というところで前回は終わりました。続きです。
好きだから一緒にいるはずの男に対してさえ、先にお風呂に入られるのが嫌だったり、隣で寝ている身体や寝具のニオイが気になってしまったり…、みなさんはそんな経験がありますか? 私の場合は、冗談交じりにではあるけれど「どうせ俺はジジイで汚くて臭いんでしょ」などと同居人にひがみ発言をさせてしまうほどで、まったく申し訳ないとは思いながらも、イライラしているときなどは特に嫌悪感を隠せません。若い男の子の部屋に入ったときなども、あの、なんともいえない男臭…、ダメです。窓を開けます。
ただそれは、“男だから”ではなく、他人の身体に対する嫌悪感とか、臭いに対する嫌悪感かも?…と思わないでもないのですが、「ああ、やっぱり男だから嫌なんだよな」と認めざるを得ないのが、性器を目にした時の嫌悪感です。私はチンコをあまり見たくないのです。
中村うさぎさんの『セックス放浪記』(新潮社)の中に「そんな女の微妙な気持ち(男性器に対する微かな生理的嫌悪感とか)」という描写があって、この箇所を読んだとき思わず深く頷きました。「ああ、みんなそうなんだな」と得心がいく思い。
私は男と恋愛をするけれど、男性器そのものに対する愛は、たぶんない、と思います。チンコ大好き! フェラ大好き! という女性もいるのだろうけれど、私は恋をしてセックスに至っても、できればフェラチオはしたくない派です。望まない男性だとちょっとホッとします。望まれれば、それはいたしますが、基本的に精液は飲めません。飲んだのは、たぶん10代の頃が最後じゃないかしら。今でも飲もうと思えば飲めるだろうか…と、今ちょっと想像しただけで「おえっ」となってしまいました。無理むり。おええぇぇぇ。
恋をしていてさえこの有り様なので、恋愛感情のない相手だと、キスをしただけで気持ちが悪くなってしまいます。場合によっては、家に帰ってから吐いたりします。「だったら、しなきゃいいじゃん!」という意見はまったくそのとおり。ときどきうっかりやらかしてしまうのですが、その度に、男への生理的嫌悪感を乗り越えるには、私の場合、原則として「恋」(のようなもの、であっても)が必要だなぁ、ということを思い知ります。
恋さえしていれば、「中で出したい」なんて男の言葉にキュンとしたり、実際に中出ししちゃったり、そしてそれがうれしかったり、というのは何回か前のコラムに書いたとおりです。チンコも精液も好きじゃないのに、中出しがうれしいこの矛盾。恋って本当に恐ろしいです。だって、私はやっぱり「中出し」そのものには、どうやら嫌悪感があるということに最近気づいてしまったのです…。
それはAVを見ていたときでした。中出しものでは、行為後、女性の腟から流れ出る精液をアップで映すのがお約束ですが、私は必ずその場面に差しかかると見るのをやめるのです。アレを見るのが本当に嫌。いったい何がおもしろいのかまったく理解できません。アレが男の中出しファンタジーなの? わからない…。まぁ私は、顔射も口内発射(これがまた女性の口から垂れる精液を映したりして!)も、精液が見えるAVは全部ダメなのだけど。…うぅ、こんなこと書いてたらまた「おえっ」となっちゃった…。
それでも。それなのに。
「好きな男とナマで交わる」というナマ幻想はやっぱり捨てられないでいる自分がいます。生殖への憧れなのか、どこかで強く刷り込みがなされたものなのか。理由はまだわかりませんが、中出しものAVを見る限り、同じ「ナマ」を志向しても、女と男とではそこへ向ける気持ちはまったく異なるんだろうなぁ、という気がします。
男への、男性器への、精液への嫌悪感に加え、あまり想像したくない男の中出しファンタジー。ここまでそろってもなお、私のナマ幻想は揺るがないのか? 実は揺らいでいるのか?!…と、そんなことを考えつつも、今日も男の子と映画デートの約束をしてウキウキしていたり、男に対する気持ちは本当に矛盾だらけです。