前回、「世の中では、30代で10人台の経験人数を“性に奔放な女”と括るらしい」ということに多大なショックを受けた私ですが、そんなことに驚くのは私ぐらいのものですか? 女友達に話をしたら、「うん、奔放なんじゃない?」と、あっさり言われてまたショックでした。
「!? だって、たとえば20歳から1年に1人とセックスしただけでも、30歳になる頃には10人だよ?」
「1年に1人って、ちょっと落ち着かない人な感じがするよ」
「そうかなぁ。結果的に1回で終わってしまったとか、そういうのも数えたら、それぐらいの人数になっても不思議ではなくない?」
「不思議ではないけど、まぁ、奔放な人だよね」
そして、「なんの根拠もないけど」と前置きしつつ、年齢÷5ぐらいが妥当な数字なのではないかという、珍妙な説を披露してくれました。なんだよ、それ……。
念のために申し上げると、私は、経験人数の多い方がよいとか、えらいとか、そういった価値観は持っていません。恋愛やセックスのプライオリティなんて人それぞれだし、そんなことは、どうでもよいと思う。しかし、どうでもよいと思うがゆえに、あまり考えたことがなかったのです。そして漠然と、「自分は少ないほうなのではないか」とすら思っていました。だって、スイッチがオフになったような期間には1年も2年もセックスしなかったりするし、見送った機会も結構あるしさ…。なのに、どうやら私も“性に奔放な女”枠に入ってしまうなんて…!
そこで思ったんです。私のこの認識の間違いが、「ナマ問題」を語る際にも、言葉足らずだったり、齟齬をきたしたりする一因になっているんじゃないか?って。私はセックスのリスクや、正しい予防方法を啓発する立場にいながら、自分のセックスには確かにゆるさがあります。それは、単に私の性格がゆるいせいかもしれないけれど、それ以上に、自分の経験を通じてつくられてきたセックス観によるものであって、同年代の大半の人が私程度に(あるいは私以上に)性経験があるのだろうという前提に立つと、「まぁ、多くの人はそんなものなんじゃないの」という思い込みを誘発してしまっていたのでした。
もちろん、人数だけがセックス観をつくるものではありません。でも、たとえば「コンドームをつける」ということ一つとっても、それを1人に交渉したのか、10人に交渉してきたのか、100人に交渉してきたのかでは、考え方に当然差が出るでしょう。
ちょっと誤解を招く言い方かもしれないけれど、セックスに関して性教育的な正しさをゆるぎなく実践しているかのように見える人、「それが当たり前」と当然のように発言できる人に対して、私は少し不思議を感じていました。私には、「セックスはコミュニケーションである → コミュニケーションというものは、日常生活においても齟齬が生じるものであり、そうそう思い通りにはいかない → ましてセックスでは恋や欲情に我を忘れて正しさが脇に追いやられてしまう場合もある → 相手や、その時の自分の状況によっても受け入れられるリスクは異なる → ゆえにリスクや予防方法を正しく知ることは大切だが、その先の実際のセックスはケースバイケースである」という想いがあるからです。
でも、恋をしたからっていきなりセックスなんてしないで、慎重に相手を見極め、避妊や性感染症予防についても話し合った上でセックスを行い、一人の人と長く付き合う。そんな関係を築いてきた人は、人数もさほど増えないだろうし、正しさに自信があって当たり前だろう。そして、私が自分自身を「普通」と勘違い(?)していたように、その人にとっては、それが「普通」のセックスというものなのであろう…。なるほどな。しかも、どうやら私よりも、そういった人のほうがマジョリティなのね?(←まだちょっと疑いの気持ちがある…)
学校で性教育を行うことの困難にはさまざまな理由があるのですが、一つには「発達の個人差が大きい」ということが挙げられます。「そうね、思春期は個人差が大きいものね、学校は大変ね」なんてノンキな感想を抱いていましたが、すっかり大人になった私たちの間でさえ、性との関わり方においては大きな個人差があるのだな…という、当たり前といえば当たり前のことにようやく気付きました。
とはいえ、私は私のスタンスで語ることしかできないのだけど、少なくとも自分を「一般的に“普通”の範疇にいる」と思い込んで語ることには慎重にならなければいけないと、戒めていこうと思います。