第二章 Take the A train ----10----

2012年1月21日


子どもたちがいなくなって、カウンターで日本酒を飲み始めた二人は、マリーさんたちに遠慮してか、話も小声になった。森脇さんが厨房に戻った晶に、なんかちょうだい、と肴を要求した。
晶はいかの胴体にもち米を詰めて圧力鍋に敷きながら、「イカ飯でいいっすか」と訊いた。わあ、うれしい、と二人が嬌声を挙げた。香織は横で枝豆を取り分けている。

「翔太君っていい男よねー」「そう、なんかこっちもフェロモン出るね」「あら、まだそんなもの残っていたの?」と二人が笑い合っていると、後ろから吉田のじいさんが「綺麗どころがお二人で、勿体ないですな」と大きな声をかけてきた。
「いいえーそんなー、崩れどころですよ」森脇さんも負けじと大きな声で振り向いて、がはは、と笑った。晶はマリーさんがそっと顔をそむけたところを見てしまった。マリーさんは話す人と話さない人がはっきりしている。森脇さんと内山さんはそれに気づいていて、吉田薬局のじいさんは気がつかない。
それにしても香織の弟の翔太は人気がある。主婦の二人は残ってまでして翔太を待っていたのだ。ちなみに晶の母親の久美子も翔太がいると声のトーンが一段階上がる。マリーさんが男たちに君臨する女王だとすれば、さしずめ翔太は中年女性たちの王子様といったところか。

カウンターの上に並べた酒瓶の隙間に置いている小さな目覚まし時計を見ると、久美子がそろそろ父親と交代して帰って来る時間だった。親父は家の玄関から出て行っただろう。気を使ったり使わせたりしたくないから、と言って、普段も店には顔を出さない。コンビニを始めてからはマリーさんの店に通うのも遠のいた。酒を飲むのは昔から好きだが、深夜の仕事がこたえるのか、年々酒量は減っている。
「こんばんは」と引き戸を開けて入ってきたのは、常連客のまっちゃんだ。このニ、三年ですっかり髪がなくなった頭をなぜながら、カウンターに座って「おばんですー」となぜか言い方を変えて同じ事を言う。続いて、シゲポンと呼ばれている、小さな相撲取りのような体型をした三十代の男性も入ってきた。先に座っていた森脇さんたちと挨拶を交わしている。このあたりは皆、顔馴染みである。
「さっきそこで大女将に会ったよ」とお絞りで手と顔と頭を拭いながらまっちゃんが言う。久美子のことだ。
「俺も見かけた。そこのクリーニング屋の前でおばさんと立ち話してた」シゲポンもうなずく。
「しかし、あの制服は目立つね。あれだけ蛍光色が強かったら夜道では安全だね」
と、まっちゃんは久美子が着ているコンビニのユニフォームのことを言う。
「あら、噂をすれば、だわ」と内山さんが振り向くと、引き戸の向こう側にオレンジ色の塊が見えて、引き戸が開いて母親の久美子が入ってきた。
「よっ! 大女将」とまっちゃんが掛け声をあげると、笑いがこぼれた店内で、久美子は、「やだよー、何度も言ってるでしょう。私はここの女将じゃありません。ここの女主人は香織さんですよ」と伸びをするように腰に手を当ててのけぞった。
「おっと、これは失礼」とまっちゃんは香織に向かって頭を下げる。香織は笑って手を振った。何度も繰り返されてきたまっちゃんの冗談に、初めの頃は言葉で返していた香織だが、ここのところは黙ってやり過ごすようにしているみたいだ。
「お袋、メシ食うか?」炊き上がったイカ飯の湯気にあおられながら晶が聞くと、「ううん、いい。私、ちょっと着替えてくるわ。あとで川端さんたちも来るから」と言い残して、マリーさんたちに挨拶しながら、いそいそと勝手口から家の方へ行ってしまった。
川端さんとは、さきほど立ち話をしていたクリーニング屋の店主で、他にいつものウォーキング仲間が来るのだろう。母親は年の近い近所の女性たちと、平日の夜に連れ立って散歩に出かけている。そもそもは、冬の間に行なわれる町内会の火の用心で街を歩いて回ることに端を発していて、これ、健康にいいわね、年中やりましょう、と何人かの有志で続けることになったらしい。「ただ、冬以外は大声を出せないのが物足りないね」と言い合っているが、実際はその話し声で百メートル離れていても歩いている場所がわかるくらいだ。

晶は香織と二人で、まっちゃんとシゲポンに酒と肴を、森脇さんと内山さんにイカ飯を出していると、翔太が戻ってきた。
「おかえりー」「ごめんなさいね、ありがとう」二人がいっせいに声をかける。まあまあ、どうぞどうぞ、と自分たちの隣の椅子まで引いている。
「あっつい」とタオルハンカチで額を拭う翔太を、横で森脇さんは鼻で吸い込まんばかりに満喫した。「ちょっと、やめなさいよ。そんなあからさまに、ねえ」と内山さんがその袖を引っ張る。「いいじゃない、減るもんじゃなし。こういうときに若さを浴びないと」森脇さんは意に介さない。「そんなマイナスイオンじゃないんだから」と内山さんが言って笑う。
「汗臭くないっすか」と、出てきたお絞りで顔を拭きながら翔太が遠慮すれば、「ぜんぜん大丈夫、むしろ、好き」と、森脇さんの屈託のない視線は翔太のポロシャツから出ている筋肉質の腕にそそがれている。翔太の仕事は左官屋だ。
「あいかわらず、モテるなぁ、おまえ」と晶が声をかけると、あはは、と翔太は歯を見せて笑った。
もうひとつ隣のまっちゃんとシゲポンは、「こんなおばさんたちにモテてもしょうがないよなぁ」とひがみ始めた。
「外野は黙る!」と森脇さんがいさめて、「そうそう、外野の話をしてるんじゃないもんねぇ、うちら。内野手の話ですから」と気取る。「外野手っていう意味じゃないよ、観客だよ」と森脇さんの逆襲は止まらない。
「はいはい、すみませんでしたー」とまっちゃんはあっさり敗北を認めて、白旗の代わりのお絞りを振った。翔太にビールを運んできた香織が声を立てて笑う。
「まあまあ、みなさん、ウチの大事なお客様ですから」と晶がまとめると、「うまい!」と後ろの吉田薬局のじいさんが一声かけた。爆笑が起きて、マリーさんもひっそりと笑っている。いい日じゃないか、と晶は不覚にも泣きそうになった。

« 第二章 Take the A train ----9---- | HOME | 第二章 Take the A train ----11---- »

おもや/ひろしのプロフィール

おもやひろし面屋洋
75年、大阪生まれ。高校生の頃からノートに物語みたいなものを書き始めて、大学生の時に、友人のミニコミ誌に初めて人目に触れる形で短編を発表、タイトルは「箪笥」でした。そのあと調子に乗って、なぜかカタカナのタイトルばかりの小説を次々 に書いて周囲の友人に読ませるというハタ迷惑な行為を続けます。しばらくして、京都でバーテンダーを始めて毎日誰かとしゃべっているうちに、書くことをすっかりやめてしまいアルコールで満たされた日々を送りはじめました。あるとき我に返り、こ のままではいかーん、と突然上京を決意します。ところが働き始めた新宿二丁目での生活で、再びアルコールに浸される日々を送りはじめます。こんなんでいいのかな、と思いはじめたときに、北原さんから「小説を書きませんか」とお声をかけてもらい ました。すみません、書かせていただきます。


▼コラム一覧へ戻る     ▲page topへ