| |
|
|

あたしの思春期のアイドルは、マイケル・ジャクソンだった。東京ドームのコンサートにも行った。ムーンウォークの練習もした(笑)。トンデモ映画、「ムーンウォーカー」も観に行った。自伝も読んだ。今ではマイケルに対してあの頃の情熱を持つことはないけれど、やはりあの顔はおかしいと思うけれど、この番組は見逃せなかった。
今回のドキュメンタリーは、ダイアナ妃の最後のインタビューを行ったイギリス人ジャーナリスト(彼もまた有色人種の男である)の手によるものである。彼は、マイケルの行動についていちいち驚愕の声を上げる。「44才の、大人の男が木登りをして楽しんでいる!」「44才の男が、多くの蝋人形に囲まれて暮らしている!」そしてマイケルに詰め寄る。「44才の男性が血縁の全くない子どもとベッドを共にすることはおかしい」「あなたは今44才でしょ? そんなことをして楽しいわけ?」(番組中、吹き替え部分が多かったため、正確な表現ではないかもしれません。まあ、字幕だとしてもあたしは英語がほとんど理解できないのではあるが)
彼がイメージする「44才の男」というものが、どういうものか、あたしにはさっぱりわからない。とにかくマイケルは、「まともな大人の男」から外れた存在であるということは間違いがないようだ。
中学生のあたしの目に映ったマイケルは、細い体で、女性のような声で歌い、踊る、中性的な存在だった。同級生の男の子たちがどんどんむさっくるしい「オトコ」になってゆく中、マイケルは違っていた。彼は、普通は「見た目」にこだわらないとされる「男」である。それなのに彼は自分の顔に異常なまでの執着を見せる。彼がたとえ「Beat it!」と歌っていても、実際に誰かを殴ることはないように思えた。そして、彼はあらゆることに傷付いていた。その一部は今回のインタビューでも語られているが、子どもの頃からジャクソン5としてスター街道まっしぐらの彼が、厳しい父親に苦しんでいたこと。初めてのガールフレンド、テータム・オニールに性体験を迫られ、とても恐かったこと。マスコミにあることないこと書かれること。また、餓えや戦争で苦しむ子どもたちのことを思っては、心を痛めていた。
当時のあたしは、思春期にありがちなごう慢さで、なんと、「あたしならマイケルの孤独を分かってあげられる」と、思っていた。うっわ〜!! 我ながら恥ずかし〜!!! うちは当時、裕福ではないが両親も健在で、カタチ的には特別「不幸」な家庭ではなかった。友達もいたし、いじめられていたわけでもないし、それなりに居場所はあった。それなのに、あたしは孤独だったんだろうか?
あたしが通っていた小学校は、いわゆるクラス委員(1クラス男女一名ずつ選出される)の他に、「団長」という、もっと偉いポジションがあった。これは、運動会の時だけ活躍する応援団長とはまた別物で、1年生から6年生まですべての学年の1組なら1組、6クラス分すべてをまとめる所は同じだが、「団長」は年間を通じてすべての行事の責任者であった。あたしが6年生の時、全校に3人しかいない(3組までしかなかったので)団長の、うち2人は女子で、その1人があたしだった(といっても人望があったわけではなく、声がでかけりゃ誰でもなれた)。そんなあたしが、中学生になってからはクラス委員などに立候補すらしなかった。中学でクラス委員になるような女子は、あたしより勉強はできなくても体育は得意で、快活で、男友達は多く、それなのに微妙な色気のある子たちだった。一方あたしは、発育は人より早かったにもかかわらず、ブラジャーが苦手で、髪のブローも苦手で、中途半端な丈のスカートに寝グセ頭で登校し、オタクな友達とマンガやアニメの話をしている、ちょっと「女」から外れた存在だった。それなのに痴漢に遭うなど、イヤでも自分が「女」であることを思い知らされたこともあった。
まだ「ジェンダー」という言葉も知らなかったあの頃、あたしは、黒人差別を嘆きつつも白人に憧れ、スターなのにバカにされ、あらゆることに傷付く「異形」の存在であるマイケルに、自己を投影していたのだろう。思春期にうまく「女」になれない女の子はあたしだけではなく、あるものは、やはり女の子のような声で「壊れそうなものばかり集めてしまうよ」と歌うアイドル「光GENJI」に憧れ、またあるものは「キャプテン翼」の岬くんに憧れていたのである(少年マンガでは、やたらと正義をふりかざす熱い主人公より、見た目もかわいらしく、性格もなよなよとした脇役の男の子に女子の人気は集中する)。
話は変わるが、宇多田ヒカルを見ていると、マイケルを思い出す。彼女もまた、才能に恵まれ、富も名誉も権力も持っているというのに、いつもオドオドビクビクしている。必要以上にファンに気を使い、やたらフレンドリーな自分をアピールし、ちょっとでもバッシングされれば、公式HPですぐにコメントを出す。また自身による歌詞も、(全曲チェックしたわけじゃないから一概にはいえないけど)彼からの電話をひたすら待ってみたり、彼が浮気してるんじゃないかと疑いつつも、彼に聞く勇気はなかったり、とにかく、自分に自信がない。ダウンタウンに「ちゃんと料理作っとるんか?」と聞かれれば、「え? う〜ん、あんま、作んない、かな。」と答えるが、「え? なんであたしが作んなくちゃいけないの? ダンナよりあたしの方がよっぽど稼いでんのに?」とは絶対言わない。この点では浜崎あゆみの方が、我が道を行っており、見ていて清々しい。
が、彼女は歌詞の中にやたらとトラウマを持ち込むことで、バランスを取っている。薄利多売のあゆよりもっと商売のうまい椎名林檎は、客席に向かってナプキンを投げたり、ザーメンだのクリトリスだのと口に出すことはあっても、バイブを片手に「男はいらない。バイブで充分」とは歌わない(たぶん。これも彼女の歌詞を全曲チェックしたわけではありません。あくまでイメージ)。エターナルラブを信じてはいないが、決して男と番うことを否定せず、「あなたになら殺されてもいいわ」と歌うことで、男の常識を押し付けられながら成長した箱入り娘や、そのように娘を育てたオヤジたちをも、安心させるのである。椎名林檎は「イカレテ」などいない。女たちは、彼女の「過激」が「コスプレ」であることを理解した上で、彼女を支持する。しかし男たちにとって椎名林檎は、彼らが愛してやまない「天然ボケの不思議ちゃん」でしかない。
宇多田ヒカルより、実力もなければ人気もない、押尾学やジブラ(あえてカタカナで)があんなに偉そうなのは、彼らが「男」だからだ。男のアーティストも、愛想抜きには人気が出にくい昨今ではあるが、宇多田のように過剰なサービスをする男タレントをあたしは知らない。
マイケルはもはや男でも女でも黒人でも白人でもない。どんなに歌の中でマッチョな男を気取っても、こんな怪物は、白人男性優位社会で存在を許されないのだ。記者はマイケルの浪費や、整形や、子どもを母親から離して育てることを、責める。マイケルが子どもとばかり遊んでいるのを、「奇行」のひとことで片付ける。この記者は、自分が大スターに向かって説教する権利があると信じて疑わない。「正しい大人の男」たちは「男は、いつまでも少年の心を忘れない」などと言いながら、本気で「子ども」であり続けようとするマイケルを、よってたかって「いじめる」のだ。チャリティー活動をしながら浪費するマイケルを責めながらも、いじめっこは自分の矛盾には気がつかない。
あたしは子どもが天使ではないことぐらい知っている。だけど、大人の男の常識を拒否したマイケルを受け入れてくれるのは子どもだけなのではないか。大人の男が作り上げた社会になじめないものにとって、世の中は地獄でしかない。あたしだってネバーランドでいつまでも「団長」をやっていたかったのだ(本物のネバーランドには性別役割分担がありますけどね)。マイケルが本当に子どもたちに性的虐待を行っているのか、あたしには分からない。でも、マッチョな記者のように「やってるだろ」と、決めつけることもできないよ。
宇多田ヒカルは、「大人の男の常識」からはみ出さない限り、トップであり続けられると思う。マイケルは「白人」にはなれないが、「女」は普通の女の役割を受け入れた上でなら(宇多田の場合結婚)、「名誉男性」になることもできるのだから。
でもマイケル〜、やっぱりあなたは「スリラー」の頃が一番かっこよかったよ〜(泣)。
|
|
|
|