第37回 宮崎駿についてあれこれ



はじめに「え?」と思ったのは、確か、「魔女の宅急便」。いや、それどころか「ルパン三世カリオストロの城」の頃から疑問に思いつつ、見て見ぬ振りをしていたのかも。

他に突っ込みたいテレビネタもあったんですが、「千と千尋の神隠し」がアカデミー賞を取ったので、ずっと書いてみたかった宮崎駿の女性観をちょっと考えてみようと思う。とはいえ、あたしは宮崎駿の作品をすべて見ているわけではないし、宮崎駿関連書も、ほんの一部しか目を通していない。だから、ここでのあたしの意見は、あくまで、一観客の意見ということで読んでいただきたい。下手なこと書くと、ぬるいファンにも、本気のマニアにも怒られそうなので、ちょっと予防線を張っているわけであるが。

宮崎駿の作品を「フェミニズム」として評価する人は少なくない。ただ、そのほとんどはフェミニストではないけれど。宮崎アニメの女性キャラは、よく3つに分類される。困難に勇敢に立ち向かう、自立した主人公である『少女』(ナウシカや、「魔女の宅急便」のキキ、「もののけ姫」のサンなど)。そして、主人公と敵対する(しかし根っからの悪人ではない)集団のリーダー、かつ主人公の導き手は、『大人の女性』(「風の谷のナウシカ」のクシャナ、「もののけ姫」のエボシなど)もしくは『老女』(「天空の城ラピュタ」のドーラや「千と千尋の神隠し」の湯婆婆など。他に、預言者的な老女も定番)。「天空の城ラピュタ」のシータは嫌いと言う女性は多いが、これらのかっこいい女性キャラが嫌われることはまずない。

宮崎駿の女性観がわかりやすい作品の一つに、「ルパン三世カリオストロの城」がある。今思えば、「カリ城」は「宮崎アニメ」として見れば優れているのかもしれない。しかし、テレビ版ルパンに慣れ親しんだあたしには、ものすごく物足りなかった。まず、ルパンも不二子も顔が優しすぎ。不二子など、出番はほんのちょっとだし、迷彩服を着せられ、いつものセクシーさは封じ込められている。だいたい、ルパンは不二子に惚れている設定なのだから、クラリスのような『少女』にデレデレするロリコンなわけないじゃないか!(宮崎駿がテレビ版ルパンにも関わっていることは百も承知。しかし、演出だけでなく、脚本も手掛けた新ルパン最終回は、やはり宮崎色が強く、不二子よりもゲストキャラのケナゲな女の方が重要な位置を占めている)

宮崎駿の描く女性にはパターンがあるにもかかわらず、不二子タイプは「カリ城」以降、全く出てきていない。先ほど分類した『少女』は、未だ性を知らない処女である。そして、リーダー役の『大人の女性』は、その役割の重責を考えると、男を相手にする暇などなさそうだ(クシャナは子分クロトワの前で義手を外し、「我が夫になるものはもっとおぞましいものを見るであろう」と語る)。最後に、『老女』は、言うまでもないが閉経後の女性である。

別に、恋愛やセックスを知らないと、リアルな女性像でないとは言わない。そんなことは知らなくてもいい。しかし、この女性たちの中でも特に『少女』は、「完璧」さを要求され、故意に『聖母』にさせられている感がある。

「ラピュタ」で、シータとともに冒険の旅へ出る「少年」パズーは、正義感が強く、ナウシカを代表とする典型的な主人公タイプに見える。ところがパズーは、大きな口でパンをほおばり、時にはずっこけ、むくれ、ナウシカのような「完璧」さからはほど遠い。
ただし、「完璧」な男性キャラもいる。「ナウシカ」のアスベルや、「もののけ姫」のアシタカたちだ。彼らもまた、ナウシカと同じく、性的なものを一切表に出さない。これは、ナウシカとアスベルがイコールなのではなく、『聖母』にお近付きになれる「男」は、絶対に『聖母』に手を出さないタイプでなければならなかったのではないか。『聖母』にデレデレするのを許されるのは、脇役のオヤジたちだけだ。パズーはまだ子どもだから、シータとともにいられるのだ。シータに結婚を迫る悪役ムスカは、最後、滅びの呪文により、失明してしまう。作中に登場する男たちは全員、『聖母』に惚れており、その様は結構生々しく描かれているというのに(トトロまでもサツキに泣きつかれ、頬を赤らめる)、一方の『聖母』は男たちにやさしいが、「分け隔てなく」「清らかに」やさしいのである。「もののけ姫」では、アシタカに色目を使うタタラ場の女たちが出てくるが、彼女たちは元娼婦という設定らしい。

「耳をすませば」のラストシーンが、原作にない「結婚しよう!」のセリフで終わるのも、婚姻関係を結んだ上でのセックスならば、ギリギリ許せるということか? (「耳をすませば」は、監督は宮崎駿ではないが、あのおとめちっくマンガをセレクトしたのは宮崎本人である。ちなみにあたしは、原作者柊あおいのマンガが中学生の頃から嫌いだった)

「もののけ姫」のサンは、ナウシカやシータに比べて、より野性的であり、ラストではアシタカと共に暮らすことを拒否する。サンを「自立した現代的な女性」と好意的にとらえることもできるが、宮崎がサンを一人森へ帰らせたのは、一生男と(女でもいいけど)交わらせないためなのかもしれない。また、サンの声を当てたのは、石田“大根”ゆり子。である。そんなオヤジのマドンナ(小林よしのりも絶賛してましたね)が演じるサンは、前半、ほとんどしゃべらないうちはかっこいいのだが、しゃべりだすと、あまりの下手さと、迫力のなさにすっかり腰砕け。まったくイメージに合わない。聞くところによると、アフレコ中、宮崎駿は石田ゆり子と視線を合わせることもできなかったそうだ。森繁久彌にすらダメ出しをした駿が。

宮崎駿は、インタビューでこう語っている。「例えば、「もののけ姫」のタタラ場の主を男でも描いてみたんです。でもそれでは面白くもなんともなかった。ものすごくわかりやすい人物になるだけでしょ。女にしたとたん違った世界が見えてきたんで、じゃあそうしようと思っただけなんです。」

エボシは、女だからこそ、障害者や女たちに職を与えたのだ。エボシは「男勝りな」戦いを好む女性ではあるが、決して「女らしい」慈悲の心を捨てない。宮崎アニメに限らず、アニメやマンガの世界に女性上司が多いのは、その意外性によるキャラ立ちを狙うのと同時に、女キャラが多い方が、男の観客にとっては「お得」だからというだけだ。もちろん、作者の意図以上の評価をするのも観客の勝手ですけど。

宮崎アニメには、『聖母』からややはみ出た女主人公も登場する。「となりのトトロ」のサツキとメイ、「千と千尋の神隠し」の千尋などの『子ども』たちである。宮崎駿は、子どもを描く時のみ、ジェンダーの呪縛から解かれるのだ。彼女たちは、パズーのように大きな口を開けて笑い、不細工な泣き顔も見せる。特に、メイのリアルな描写は、何度見ても感動する。ただ、サツキや千尋の年齢になると、母親の役割を負わせ、「女走り(手を前後にではなく横にして振る)」をさせてしまうのだなあ…。宮さんは。いや、キャラによって走り方にも違いを出すってのは、わかるんですよ。わかるんですけどね…。

次回作「ハウルの動く城」は、18才の『少女』が、呪いによって90才の『老女』に変身させられてしまう物語だという。「処女」から「閉経」へ。なにもそこまでしなくても。でも、(イヤミでなく本当に)楽しみにしてます。

「千と千尋の神隠し」がアカデミー賞を取ったのは、当然といえば当然なんだけど、でもこれでまた「日本人は世界に通用する!」とかいう奴が出てきそうでイヤ。天才と自分を、日本人という共通項だけで同一化しないでくれ。技術的な問題はともかく、現在の和製アニメって、「美少女萌え萌え〜・」がほとんどじゃん。それに、「正義と悪の揺らぎはアメリカ人にはわからない」とか言うけどさあ、「もののけ姫」公開当時、周りで「つまらん」「わからん」って大人の意見、結構聞いたよ? 「千と千尋」にしたって、「クライマックスがない」と言ってる人いたし(こういう人はたいてい「トトロ」より「ラピュタ」派)。まあ、ジブリブランドってだけでありがたがる人よりは正直だけど。お客様方、ジブリをディズニーにはしないでくれ。頼む。

文中、キャラクター説明ははぶきました。わからない人は置いてけぼりです。本当の宮崎駿を理解したいのなら、「紅の豚」がオススメ。あれは、趣味全開ですから。といっても、あたしは全然付いてけなくて、一回しか通しで見たことないんだけど。


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