夫の帰りが遅いから。子供がまだ小さいから。保育園が一杯だから。家庭を切り盛りするのが務めだろう、と周りから圧力がかかるから。
いまや崩壊しかかっている『家庭』という幻想を維持するための様々な理由がより合わさってできた結び目が『主婦』。車のハンドルにある“遊びの部分”みたいな結び目は、なくてはならないものだけれど、「これがなくてはどうにもならない」というほど、重要でもない。
子供は、じきに成長する。そうすれば保育園は必要なくなり、やがては家事を助けてくれる存在になる。夫だって、うまいこと順調に定年まで勤めたとしても、その後妻にぬれ落ち葉をやる必要はないし、もともとリッパなオトナなのだから、自分ひとりの面倒くらいは本来できて当たり前。周囲の圧力、う〜ん、これは・・・変わらないかもしれないのでなんともいえませんが、ともかく。個人差はあっても結び目の硬さはいずれ、緩んできます。(緩んできたとたんに『介護』という結び目に固定されてしまう人もなかにはいるのだろうけれど・・・)「主婦が主婦でいることの必然性」を失う時。そのときになって、子供におんぶおばけをやらかすことを避けるためにも。主婦を『専業』でやりながら、林道義に共感なんぞするのは危険だ、と思います。
でもね、一体、「主婦ってなんなの?」
「本来の女性の幸せは、夫に尽くし、子どもに尽くすことではないのか。その幸せを享受しようとしない女性が増えて困ったもんだ」といった主張をして主婦擁護に回る保守派の方たちは、大抵「主婦ではない」ひとたちだ。そんなに主婦業が幸せで、素晴らしいものなら、どうしてこの分野にもっと男性が介入してこないのでしょう? 欲しいものは戦争してでも勝ち取ろうとなさる殿方達だというのに。ヘンなの。
「保守的な女性のあり方は、女性を抑圧している」といった主張をするフェミニスティックな方たちもまた、大抵「主婦ではない」ひとたちだ。紋切り型の女性像を否定し、多様な生き方を支持するフェミも、こと「主婦」に関する記述は紋切り型で。コレが少し、寂しい。
「主婦でないひとたち」による様々な主婦論議に、フェミに傾倒しつつも主婦の私は当惑しています。
近代以降、「主婦という名の母親」(あるいは「主婦を担う誰か」)である『結び目』の恩恵をまるで受けることなく成長した人間がいるはずもないこの日本で、どうしてここまで「主婦」が他人事のように論じられるのか。とんでもない『良妻賢母』をただ押し付けられたり、『奴隷だ、家畜だ、三食昼寝付きだ』と揶揄されなければならないのか。
そして、どうして私は保守派に共感できずに、自分が主婦であることに「価値がある」と、胸を張ることのできないメンタリティを持っているのでしょうか。
保守派のおっさんたちを喜ばせるために結婚したわけでもないし、少子化を食い止めようと将来の日本を支えるつもりで子どもを産んだわけでもない。フェミニストに「ほら、ここに抑圧されたオンナがいるよ」とモデルケースとして指されるために家事をやっている気なぞ、毛の先ほどもない。ジェンダーを内包する社会の枠組みに収まりたくない自分を貫くためのクリエイティブな才能とチャンスなど、そうつかみ取れるわけでもない、と分をわきまえたオンナがふつーに生きている。フェミに惹かれながら。
それなのに。私の生き様を見て保守派のおっさんが喜ぶのかと思うと、虫唾が走る。
・・・どうして私はフェミに惹かれてしまうのでしょう。
この問いに答えを差し出してくれた映画は『トーチソング・トリロジー』でした。
主人公はゲイの青年で、夜のお店で歌う仕事をしています。主人公の母親は彼のセクシャリティを認めるキャパがありません。そして、口論になったときに、青年が母親に云うのです。
『僕は、一人でも生きていく事ができる。生きていける。だから、僕に愛と、尊敬を抱いて接してくれないひとはいらない。・・・貴女の事は、母親だから。愛しているのだけれど』
青年のこのセリフは、フェミそのものだ、と。やっぱり私はフェミがいい、と痛烈に感じました。愛、と和訳された字幕は陳腐だったけれど、彼の口からでた『Love』は重くて。とても重くて。私も、私の大事なひとたちにこう云いたい。云えるようになりたい。だけど、「言えないじゃんか〜、ちくしょ〜!」と、なんだか打ちのめされて、コレ観た時はもう、号泣してしまいました。(未見の方は、ぜひ。いい映画です)
「誰に食わせてもらっているんだ」なんて、今までパートナーに言われたこともないし、家庭にがちがちに縛られていたのは(子供の)乳児期だけで、今は夜に呑みに出る事もできれば、お互いに予定を調節して一人で小旅行に出かける事もできる。
それでも、やっぱり上のセリフを「言えない」と思ってしまうのは、・・・稼ぎがないことの劣等感。365日、盆も正月もなく家事労働にいそしんでいるというのに、この自己査定の低さはなんなんだ。・・・責めているのは、パートナーではなく、自分自身のチンコ性。「おらおら、オマエは稼いでないんだよ」とチンコをぐりぐりと間違ったポイントにこすり付けているのは自分。夫に捨てられたり、夭折されてしまったりした場合、丸裸になってしまう社会構造が、それに拍車をかけている。いざトラブルが発生すれば、割を食うのは主婦オンナ、という現実は、お互いに依存しあっているはずの関係を微妙に歪ませてしまう・・・ような気がします。
『歪み』をちゃんと『歪み』として見せてくれたのはフェミニズムでした。処方箋をもらいました。けれど薬局は・・・ないんですよね。フェミ自身が錯綜している今、クスリは、自分で創るしかない。私はもう30代だけど、まだ30代でもある。死ぬまでに、なにができるか、できないか。・・・どっちにしても、私はフェミが好き、です。
12週間、お付き合いありがとうございました。感謝を込めて。 澤野苫子 拝
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