いままで、母親、姉、親友2人、人生の大先輩2人……と、「アタシの本当に大切な人」と即座に言える人たちを見送ってきて、先月、7人目を見送ることになった。37歳の段階で7人目を見送ることが多いのか少ないのかは分からないけれど、まあ、これも人生というものなのでしょう。
今回の別れは、友人をはじめ周りの人々に本当に救ってもらった。友人たちは「そんなの当たり前だ」と言うでしょうし、友人が今回のアタシと同じ立場に立たされたらアタシだって同じ行動をとるとは思うけれど、それでも、感謝する気持ちは消えないわ。そして、さまざまな形で情をかけてくださった読者の皆様にも御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。
先に逝ってしまった大切な人たちのことを思うとき、アタシはどうしても、その人たちの「生きた意味」を考えてしまう。もちろん、アタシが考える「その人たちの生きた意味」と、その人たち自身が考える「自分の生きた意味」がピッタリ同じであるはずはないと分かっているけれど。分かっていてもなお考えてしまうのは、たぶん、そのことを考え、アタシなりの答えを出していくことが、アタシが立ち直るために必要なことだからだろう。そして、アタシがこれからも生き抜いていくために必要なことだからだろう。って、アタシったらどこまでも自分のことしか考えていないわね。とほほ。
ただ、細々とではあるものの、高山真としてものを書くようになって数ヵ月後くらいから、アタシには不遜な考えが生まれるようになったの。「いままでは、アタシがアタシのためだけに、自分なりのものの見方や解釈の仕方を考えて、そこから生まれる知恵や方便をアタシ自身に与えてきたけれど、もし、それが誰かにとって、思わぬ自分自身を発見するきっかけになるのなら、それも幸せかも」と。
好きな人や大切な人とだけ関わっていても、その「好き」という気持ちも変化したり、どちらかがいなくなってしまうことで否応なく関係性は変わる。好きな人や大切な人とは正反対の世界にいる、自分に理不尽な攻撃を加えてくる差別主義者(自覚のあるなしに関わらず)と一度も遭遇することなく日々を生きていけるオンナとオカマなんて、いるはずがないとアタシは思っている。ドラマ『セクシーボイスアンドロボ』の浅丘ルリ子のセリフを借りれば、「だってあなた一人で生きてるんじゃないもん。この世界にあなたは関わってるの。どうしようもなーく関わってるのよ」という状態ならば、そこで得られた(あるいは背負わされてしまった)ものの「意味」を自分なりに解釈していくことこそが、アタシにとっては「生き抜く」ということなのかもしれないわ。
そんな気持ちは、今回の別れを経験してもどうやら消える気配はなさそうなので、いずれ落ち着いたら、今回の別れで自分が解釈したことも、書くことになると思います。アタシがほかの方々の意見や哲学を代弁できるなんて、そんな大それたことは考えていないけれど、読者の皆さんに温かい情をいただいたのだから、そのお返しはしたい。どんなに「ありがた迷惑だ」と言われようと、アタシなりの「視点」を書いていくことが高山真の勤めかな、と、だいぶ平静になった心持ちで思えるようになりました。
みなさんのご健康を心より祈ります。