*ラブピースクラブからのお詫び
10月8日にアップデートした原稿と内容が違う部分があります。
私たちのミスで、ミヤマさんからの訂正原稿をいただく前の原稿をアップしてしてしまいました。
今回は、前回の宿題を片付ける。それは、現代において(より厳密に言えば近代以降)、結婚とは必ずしも直結しない恋愛形態が主にモノガミーを下地にしているのはどういうことなのか、というものである。
恋愛という概念は、中世の西洋で発明されたといわれている。貴族の夫人と騎士の不倫が恋愛の始まりであった。つまり、当時の恋愛は結婚の対極にあったというわけ。以前、某テレビタレントが「不倫は文化だ」と発言して顰蹙を買ったが、歴史的にみれば決して間違いではない。ただ、現代の日本における恋愛文化が、表向きは不倫を排除しているという事情がある。
恋愛という言葉が普及する以前の日本では、「色(いろ)」という表現が使われていた。これもやはり正当な婚姻とは対極に位置する関係をあらわす言葉である。般若心経のなかの著名なワンフレーズ「色即是空」の「色(しき)」は、簡単にいうと、あらわれては消えていく現象やできごとを意味するが、この意味合いは「色(いろ)」にも充分通じる。いまの逢瀬が終われば今度いつまた会える保証はないから、この刹那に自分のすべてを注ぎ込む、というような感じ?
つまり、恋愛にしても色にしても、この先の保証も安定も望めない、生まれては消えていくはかない営みだからこそ激しく身を投じて燃え上がる。この時点では、モノガミーにめちゃくちゃ相対している。むしろ、モノガミーの裏をかくのが恋愛であり色であった。
ところが、結婚が国家的制度として一般大衆に敷衍し、ついでに建前上民主主義社会となっていった近代以降は、事情が変わってくる。親の決めた相手と結婚するのが当たり前の時代には、愛とは家族社会システムに属するものだった。しかし、パートナーを個人の自由意志で選ぶのが当たり前の風潮になると、愛は自立した個人(近代的自我)に属するものとみなされるようになる。自立した個人による対等な関係構築としての恋愛が、近代的自我にとってはすべてのひとにひらかれた平等な営みであり、条理として自明視されるようになっていった。
けれども、近代的恋愛において、自由と平等は相矛盾する。自由恋愛とはじつはたいへん不公平かつ殺伐たるもので、「わたし」が「あなた」を愛しても、「あなた」が「わたし」を愛してくれるとは限らない。だれかを愛する自由はあっても、そのだれかに愛される保証はない。愛されない「わたし」に直面したとき、「わたし」は愛の条理の闇を見る。愛されない「わたし」にとって、愛はけっして自明でも条理でもなく、残酷なまでに不条理である(だが、結婚という制度的愛は、「安定」というイメージ操作によってこの残酷さを覆い隠してしまう)。
このことを、評論家の呉智英は「中島みゆきは中山みきである」(『中島みゆき ミラクル・アイランド』所収)と題した文章のなかで、「近代的自我にとって条理としてあるように教えられてきた恋愛が、近代的自我にとって最大の不条理になるという逆説を、身を削るようにして歌っている」のが中島みゆきである、と端的に述べている。
愛したひとの数だけ愛されるひとはいない
落ち葉のつもる窓辺はいつも同じ場所と限るもの
(「鳥になって」)
ふたりだけこの世に残し死に絶えてしまえばいいと
心ならずも願ってしまうけど
それでもあなたはわたしを選ばない
(「この世にふたりだけ」)
デビューから約10年のあいだ、中島の歌は「暗い、重い」「失恋ソング」「モテない女の怨み節」と評されてきたが、この評価はあまり正確ではない。かのじょはただ悲しみに打ちひしがれたり自分を捨てた相手を恨んだりするのではなく(そんなことをしても愛の不条理は決して解消されない)、愛の不条理そのものを自分のうちに抱え込み、自我のなかで解消するしかないという孤独とシビアさと悟りを、ときに切々と、ときに清々しいほど淡々と歌っているのである。
心理学者であり作家でもある小倉千加子は『松田聖子論』のなかで、先述した呉智英の言を引用したあと、こう展開する。
<恋愛とは、近代の中で最後に残った不条理なのです。しかもその不条理とは、近代的恋愛そのものに内在しているのです。
端的に言えば「好き嫌いは差別である」ということです。恋愛の魑魅魍魎性は、近代の「平等」という理念をすり抜け、常に差別される者を生み出し続けているのです。
人間は平等だ、男と女は対等だと言っても、ある男の前で二人の女は平等ではないし、ある男の前で、恋する女の対等が保障されるものでもないのです。つまり、男は女の「女」という記号を愛しているのであって、個人を愛しているわけではないのです。
中島みゆきの歌が、常に失恋をテーマにしているのは、それが究極のーー学生運動が解決しえなかったどころか、学生運動そのものが生み落としたーー近代的不条理だからです>
愛の不条理の原因は、愛されない<わたし>の魅力が不足しているせいでも、愛さない<あなた>の自分勝手さのせいでもない。だれのせいでもない雨が降るように、昨日滝川と後藤が帰らなかったのも、<わたし>が愛されないことも、まただれのせいでもない。にもかかわらずというべきか、だからこそというべきか、とにかく「<わたし>はこんなにも<あなた>を愛しているのに、<あなた>が愛するのはこの<わたし>ではなく別のだれかである」という愛の残酷さは、時の経過とともにその哀しみが軽減するまで、モノガミーであろうとポリアモリーであろうと、愛されない<わたし>が胸のうちに抱え込んでおくしかないのである。
愛の不条理に直面するのはだれだって怖いしつらい。できれば避けたい。けれども、すべての生きものが死を避けられないように、わたくしたちはつねにすでに愛の不条理のただなかにある。それを心静かに受け止めろとは言わない。みっともなく抵抗したって、離れていく相手に取りすがったっていい。この世で自分ほど不幸な者はいないと嘆いてもいいし、「世界中のラブラブカップルはみんな死ね! 死んじまえ!」と呪ったっていい。自傷行為もOKだ。とにかく、なんらかの方法で、わたくしたちは愛の不条理を経過するのだ。結婚を前提としていようがなかろうが、すべてのひとのうえに、愛の不条理という雨が降る。
さてさて、まんこ話は遠くなりにけり、と心配するなかれ。まだしばらくのあい
だは、まんこ探究がやめられそうにないミヤマであった。
*ついでに告知*
2008年11月3日(月・祝)に都内で『ヴァギナ・ダイアローグ』というワークショップを行います。詳細は こちらをどうぞ。みなさまのお越しを心よりお待ちしております。
【タフまんワールド・用語解説】
▼中島みゆき
ラブピースクラブ北原みのり嬢もこよなく愛するアーティストである。中島みゆきに関する論評は数多あるが、ミヤマが知る限りでもっとも秀逸なのは、島崎今日子『この国で女であるということ』所収の「孤高の歌姫の『地上の星』」である。本人取材を断られ、近影も入手できないという徹底した情報コントロール下に置かれ、周辺取材中に「音楽業界で仕事ができなくなるよ」と忠告されてまでも上梓した渾身の小文である。みゆきファンは必読。
▼だれのせいでもない雨が降るように、昨日滝川と後藤が帰らなかったのも
中島みゆき『誰のせいでもない雨が』のもじり。曲をご存じないかたにはなんのことやらさっぱりわからないであろう楽屋受け的フィーチャリングですみません。