その日は単発で入った仕事の締め切り日で、原稿は前日にほぼ完成していた。なので、だらだらと11時まで惰眠をむさぼり、洗濯をし、原稿の細かなチェックをし、うどんを湯で、昼ごはんにした。午後、原稿を編集者に渡してしまうと、他に急ぎの仕事もなかったので、今週末で上映が終わってしまう映画「モンスター」を観に行くことにした。面白そうな映画だし、チケットショップで割引券を買わず、正規の値段で見るつもりだった。ところが、その日は映画サービスデーとかで、千円ぽっきりだったのである。まあ、なんとラッキーな。と、とてもハッピーな気持ちで映画館のシートに身を預けた。
物語は、実在した女性の連続殺人犯をモデルにしている。自分をレイプした客(主人公は娼婦である)を殺したことから始まる連続殺人。その後、彼女は、「愛」のために殺人を犯すが、その愛を美化することなく描いている所があたし好みであった。ラストではハンカチが必要なほど泣いてしまった。エンディングが始まるとすぐに席を立った何人かの男たちは、一体この映画を見て、どんな感想を持ったのであろうか。
映画館を出て、ビックカメラに現像を頼んだ写真を取りにいった。DPEは、仕事帰りの人たちでとても混雑していた。そこで、一度別のフロアーで電池などを買い、また戻ったのであるが、やはり混雑は変わらず、あきらめて列の最後尾に並んだ。すると、あたしの後ろに並んだオヤジが、いきなり騒ぎ出した。「おい! 受け取るだけなんだから、早くしろよ!」そのDPEには、受付用のレジと、受け取り用のレジと、その他修理等の受付カウンターがあり、たしかに接客をしていない店員が一人二人はいたのだ。店員に「申し訳ありません」となだめられ、いったんは黙ったオヤジであったが、あたしの後ろで控えの紙をずう〜〜っと、カサカサカサカサいじっている。あたしが何度か振り返っても、気付かず、カサカサ。「モンスター」の主人公、リーのように、あたしもこいつに銃をぶっ放したいぜ。などと妄想しつつも、ここまではまだ「よくあること。しかし、今日のいい気分は台無しだ」と思うに留まっていたのである。
ところが、オヤジは再び店員に向かって文句を言い出した。「早くしろよ! 何やってんだよ!」店員が「こちらで受け取りは承りますので、こちらでお並び下さい」と、冷静に対応する。するとオヤジはあたしの順番を抜かそうとしたが、あたしが控えを見せると、「なんだ、あんたも受け取りか」と、店員に対する態度とは違う、普通の声で、あたしの後ろについた。オヤジにとっては、あたしも同じイライラを共有する仲間に思えたのだろうか。お前にイラついとるっちゅーに。しかし、オヤジの怒りはまだおさまらない。「いいから早くしろよ! 担当者出せ!」
「モンスター」を観た後だったからなのだろうか、あたしは、振り返ってオヤジに言った。「みんな黙って並んでんだから静かにしろよ!」しかし、オヤジはあたしの方には振り返らず、店員に怒鳴り続けている。そこで、そんなつもりはなかったのだが、つい、軽くオヤジの肩を小突いてしまった。それでもオヤジはあたしの方には振り返らなかった。自分の怒りに夢中で、自分が話しかけられていることにも気付かないのだろうかと、あたしはあきらめ、また、カウンターの方に向き直った。
「担当が違うからできねえってんじゃ、役所と同じじゃねえか!」まだオヤジはぐだぐだ言っている。店員は冷静を装って対応する。昔、バスに乗っていて、渋滞に巻き込まれた時のことを思い出した。その路線ではよくあることなので、客のみんなが黙って乗っていた。一人のオヤジを除いては。オヤジは、わざわざ運転手の横に張り付き、ず〜〜〜っと、文句を言い続けていた。渋滞は、この運転手さんがどうにか出来ることじゃないのに。オヤジは、自分が客のイライラを増幅させていることなど、もちろん気付かない。だって、正義は自分にあるんだもんね。
オヤジの怒鳴り声がやまないので、あたしは振り返って、もう一度、オヤジに言った。「うるせえよ。黙って並んでろ」しかし、やはりオヤジは振り返らない。そこで、「無視すんなよ」と、言ったとたん、オヤジがこちらを振り向き、そして、あたしの順番が来た。レジに向かうあたしの背中に向かって、オヤジは悪態をついた。「なんだと、××みたいな顔しやがって」残念ながら、「××」の部分は聞き取れなかった。続けてあたしに向かって容貌について悪態をついたら、きちんと言い返そうと思ったが(たとえば、「容姿のこと言えば、女がみんなヘコむと思うな!」とか「どう見てもあたしよりお前の方が人間的に醜いだろう!」とかね)でも、聞き取れなかったのでは仕方ない。「松坂慶子みたいな顔しやがって!」と言っていたのかもしれないじゃない?(←ありえません)
オヤジはそれきりあたしには攻撃して来ず、すぐに他のレジが空いて、オヤジの順番になった。「チンタラ待ってる客ばっかじゃね〜んだよ」と、まだ目の前の店員には文句を言っている。あたしは、担当の店員に、「大変ですね」と言うと、店員は事務的に、「いえ」と、答えた。ポイントカードで代金を払いながら、涙があふれてくる。別に、オヤジに言われた言葉には傷付いちゃいない。涙がこぼれる前に、写真を受け取り、店を出た。
帰り道、思い出す。そういえばあたしは、両親に意見を言おうとすると、なぜか涙が出てきてしまう娘だった。親から暴力をふるわれたことはほとんどない。それでも、なにか抑圧的なものを常に感じていたのだと思う。今日の涙は、「モンスター」のせいで緩んでいた涙腺のせいにしよう。DPEには、他にも、OL風二人組などが並んでいたが、彼女らはあたしのことをどう思ったんだろう。そのオヤジと同じくらいのキチガイに見えたのだろうか。冷静になると、たしかにビックカメラ側にも柔軟性がなさ過ぎると思う。しかし、たぶん、あそこでオヤジに怒鳴らなかったら、もっとモヤモヤしたまま、一日を終えなければならなかっただろう。ああでも、泣かなかったらもっとかっこいいのになあ。
家に帰ってから、編集さんに差し入れで頂いたケーキと、コンビニで買ったビールという、健康には最悪な組み合わせの(でも楽しい)夕食を食べた。今日は飲まないつもりだったが、「モンスター」の中であまりにもおいしそうにビール飲んでたもので。つい。