
「秋葉原事件 加藤智大の軌跡」という本を読んだ。幼少期から事件を起こすまでの、加藤に起こった出来事や動向が事細かく書かれてる。
加藤のお母さんが幼い加藤に対して行った言動が凄まじかった。小学校高学年になってもおねしょをする加藤を叱咤し、布おむつをはかせ、おねしょをしたらおむつを外に干したり。宿題の作文を添削されてお母さんの言う通りに何度も書き直しさせられたり。つらくて泣けば、「泣いたら1つスタンプを押すカード」を作られ、スタンプがたまると更にきつい罰を与えられたり。
母親による脅しと暴力、無視が駆使され子どもの自尊心が破壊されていく。その裏で、父親は当然のように「帰りが遅く、帰ってこないこともある」。父親がこういった状況から子どもを救うのは不可能じゃないはずだから、子どもが大変な目に遭うのを遠隔操作しているのは父親、と言っていいと思う。
加藤が成人してから、母親は、加藤本人に直接謝罪したという。こういう母親が面と向かって謝罪するなんてことがあるんだ、と私は驚いた。その「謝罪」は加藤の屈折にどんな影響をもたらすんだろう。本には「母との邂逅」という章にそのエピソードが書かれていた。「邂逅」は「思いがけなく出会うこと」という意味の言葉だから、「和解」まではいかない、ほんのりとした意思疎通、っていう意味として著者が選んだのかなと思う。
それからの加藤は事件を起こすギリギリまで、強烈に「彼女(恋人)」を追い求める。その加藤の望む「彼女」というのが、そのまんまの加藤を丸ごと受け止めてくれる女、という意味で、加藤はモテるために服装や髪型を変えたりしない。あくまで「自分そのもの」を全面的に受け入れてくれる女を欲した。そういう関係は赤ちゃんとお母さんくらいしか成立しない。幼少期に母親に自尊心たたきつぶされた影響なのかなと思った。
後半は母親がほとんど登場しないのだが、私はどうしても「謝罪」が気になった。
私は小学校の時、40歳くらいの女の担任から毎日のようにイヤミを言われていた。他の子もこの先生を嫌っていたけど、私は特別にきつくあたられる2人の中の一人だった。24歳まで先生への恨みが消えずかなり苦しむ羽目になった。
24歳の時、その特別きつくあたられていたもう一人(A君)の名前を、当時やり始めたばかりのインターネットで検索した。A君と「先生の悪口を言う」ことでスッキリするんじゃないかと思って会う約束をした。
A君は先生のことをさっぱり忘れていた。私がエピソードを話すとようやく思い出すという感じで、彼の小学校生活の思い出は明るいものだった。私よりもひどいことをされて何度も泣かされていたのに…。私は先生にされてイヤだったことをつらつら話すとA君は言った。
「よっぽど先生に嫌われていたんだね」
その言葉がショックで、なんだか頭の半分が真っ白になってしまった。帰りにA君は私の自宅が実家じゃないって分かった上で当然のように着いてこようとしたので、「え? ここでバイバイ」と言うと顔面蒼白になり、無言で去って行ってしまった。何が何だか分からなくて、「A君は私とセックスするつもりで来ていた」ということと「私は先生に嫌われていたんだ」ということを認めるのにかなりの時間がかかった。
「先生が生徒を嫌うはずがない」「先生が生徒をいじめるはずがない」という思い込みが、「先生には何か事情があったはずだ、その事情は一体なんだったのか」と私に考えさせ、いつまでもイヤな思い出が心に残っていたのだと思う。
それからは先生が心の中に登場することが次第になくなっていった。しかし去年、ゲシュタルトセラピーを受けた時に、先生が心に浮かんだ。【ゲシュタルトセラピーは、「今の私」の心や体を見つめるセラピー。気になる物事や人が浮かんでくると、その物事や人が目の前にいる、という前提で誰もいないイスに向かって話しかけたりする。そしてそのイスに今度は私が座ってみると、その人の目線で私に対しての感情などを体感できることがある】
ファシリテーター(セラピーを進行する人)に「では、その先生になってみてください」と言われ、“先生が座っている前提のイス”に座ってみた。すると、教壇から見渡した教室のイメージがワッと頭に浮かんだ。教室がものすごく光り輝いて見える。自分が受け持つクラスの児童たちがまぶしい。生命力にあふれ、希望に満ち、純粋に世界を受け入れる子どもたち。強い光を放っていて、それに対して“先生”の心はカスカスに乾いていた。「この子たちに比べて、アタシはなんてつまらないんだろう」と卑屈な気持ちでいっぱいの先生の心情を私は体感した。
教師という仕事しかできないアタシ、だけどこの子たちはこれからどんな職業だって選べる。バツイチで再婚もできそうにないアタシ、だけどこの子たちはこれから恋愛自体を始めるところ。子どもたちと向き合うほど、アタシがみじめに思えてくる。
中でも二つ、光り輝く生命体がある。A君と田房の席だ。A君は大人しくてモテなそうなくせに頭がよくて出世しそう(A君は国内トップレベルの大学院を卒業し大企業の技術開発者になっている)だし、田房はどんなにイヤミを言ってもニコニコしててどんなことしても死ななそう。2人がいるとイライラする。
子どもの私からは「先生」という大人はすべてを持っていて、完璧な存在に思えた。だけど実は先生のほうが、私たちに劣等感を感じていた…?
私は頭の中で、「これはあくまで私の心の中の“先生”の心情であって、実際のことは分からない」と唱えたが、これは先生の当時の心境と相違ないと感じた。まぶしい子どもたちが羨ましくて悔しくて、こんな自分の言うことをハイ!と素直に聞く子どもたちがわずらわしくて自分でもコントロールできない意地悪な感情があふれ出ていた。先生の言動と辻褄が合った。
加藤の母親にも「先生」と同じものを感じた。彼女には息子の自尊心をたたきつぶす必要があったんじゃないだろうか。そうじゃないと自分の自尊心を保てなかったんじゃないだろうか。名門の高校に入ったが大学には行けず、専業主婦になって夫は帰ってこない。そんな状況の女性が、もし自分自身のやりたいことや目標もない空っぽの状態だったら。ただでさえ目を開いているのが大変なほど世界は自分よりまぶしいのに、目の前に希望をまとった小学生の男の子がいたら、まぶしくて目が開けられないから、まずそのまぶしいものをまぶしくなくさせなきゃいけなかったんじゃないだろうか。
「親が子どもに謝ること<後編>」に続く。