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未知との遭遇

田房永子2015.04.28

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※このコラムは表現上、「母」と「娘」という呼称で固定して書きました。
 受験校、就職先、結婚相手などを母親に勝手に決められたり、世話などの行為の動機が「あなたのためよ」で終始している割にはこちらの要望は母親の言動に全く反映されなかったり、その為、母親に何をしてもらってもただ虚しいだけ、他人からは「それだけ母親にしてもらってありがたいわね」「恵まれてるわね」と言われ、自分でも「ありがたいと思わなきゃいけない」と強く感じ、必死でそう思おうとがんばっているのだがふと気を抜くと「母に感謝」なんて一切思っていない自分の気持ちに気づいたりする。そういう娘がいる。
 母に抵抗を示すと母も反発をする。その母の反発が暴言を吐く、愚痴を言う、泣き言を言う、他人に言ってやるなどの脅しをする、などそれぞれタイプや状況は違っても、いつも母親に感情をねじ伏せられ母にとって都合のよいストーリーの中の登場人物として動くことだけを要求され続けることは、「そういう娘」に共通している。
 そんな生活が小さい頃から、さらに成人してからも続いていれば、「自分が生きているという実感」を感じられなくなる。社会的には健康で恵まれている10代・20代と思われているため、そのギャップに体は蝕まれていく。精神的な症状だったり、対人関係を結ぶのに困難を感じたり、人によって表出のしかたは違っても、何かしら出てくる。それは生き物として当然の反応だと思う。
 そう“仕向けてきた”母のことを憎い、と思う感情が湧いてくる。謝ってもらわないと気が済まない、と思うようになる。憎みたくなんかないのに。大人になってやらなければならない仕事、やりたい趣味、積みたいキャリア、行きたいところ、考えたいことがたくさんあるのに、脳の大半がいつも母親のことで埋まっている。他の人はそんなにいつも母親のことを考えてないのに、情けない。早くこんな“親離れ”していない自分を脱却したい。母に謝罪してもらえれば前に進める気がする。
 それで母親に「どうしてあの時あんなことをしたの?」「あれはひどかったと思うよ」と、思い切って冷静に言ってみる。こういう時の「そういう母」の反応は、「何も言わずにシラーッと横を向く」「謝るが、後日訂正して『私は悪くない』と念を押してくる」「『覚えてない』『忘れた』と言う」などが多い。思い通りの“謝罪”が返ってくることは少ない。

 いろいろな考え方があるけれども、私は「母親に対して直接、謝罪を求めたり、追求したり、断罪する」っていうのはしなくていいことだと思っている。
 私自身、実際の母に「なんであの時あんなことしたの」と直接聞いたことは一度しかない。母は反射的に謝罪し私はとても癒やされたけれど、翌週に「あれは永子ちゃんが悪かったからやっただけで私は悪くないというのでいいわよね」と訂正され、その反応に絶望した。他にも、家出や無視などで「母に屈しない」という意思表示をして今までの“愚行”を“反省”させようとしても、「永子ちゃんは私から巣立って行ったの」と楽しそうにメルヘンなことを言ったりする。その後こちらが母に連絡をすると「永子ちゃんは修行に行ってたって思ってたから! もとの永子ちゃんに戻ってくれてうれしい」などと言う。抵抗すればするほど、むしろその母の思い通りの娘であるというメルヘンホールは巨大になり、それが私を吸い込む力は強大になる。絶対に勝てないのである。そういう日々を繰り返し、いよいよ完全に連絡を絶たないと自分の人生がめちゃくちゃになると思ってからも、何度も怒りが噴出し、母に向かって真相を追究したり謝罪を求めたりしたくなった。だけど、そうすると逆に母の威力が増すということが分かっていたので、直接対決は一切しなかった。
 私のような「そういう娘」にとっての母は、生活を脅かすストーカーや、自宅に取り付けられた爆発時刻のわからない時限爆弾、近所の動物園から逃げ出したまま見つかっていない猛獣、と同じ類の存在である。会話のできない状態の相手と対話しようとするのは、大変な行為である。母の言動によってボロボロの精神状態になっているからこそ、母へ怒りがあるわけなんだけど、そんなボロボロに弱っているときにもともと会話の成立しない相手(母)と“和解”するのはさらなる困難を極める。しかし「親子なんだもん、話し合えば必ずわかり合えるよ」とか、世間では普通に言われている。ドラマとかで聞くよりも、すぐ横にいる生身の人から聞くことのほうが多い。

 「危険を脅かす存在」から物理的、精神的に離れ、自分のボロボロ状態をまず回復させるという作業が絶対に必要だと私は思う。ボロボロのまま猛獣と戦う、和解する、のは無理である。自分が食われて死ぬか、噛まれて自分も猛獣化し、別の生贄を与えて猛獣に納得してもらうしかない。(別の生け贄になりやすいのは子どもである)
 だからまずはストーカー、爆発時刻のわからない時限爆弾、猛獣から離れ、ボロボロの自分を回復させなければいけない。

 どうやって回復させるかというと、「自分は間違っていない」と自分に分からせることを続けるしかない。猛獣と同じ檻に入れられ、気まぐれにでかい爪で引っかかれたり、いたずらに半殺しにされてきた。檻の外の人たちは「あなたたちは親子なんだから、よく話し合えばわかり合える」「猛獣はあなたを愛してるのよ(子を愛してない親なんていないわ)」「ひっかかれる? うん、それも愛の形なのよ」と言ってくる。「私の恐怖・嫌悪」を丸ごと否定され続け、「愛」だから「親子」だから、それをないことにしろ、と親自身からも社会からも要求される。小さい頃からなので自分でもよく分からなくなっている。
 その行為が愛だろうが、周りから見て正しかろうが、「私は母に対して恐怖を感じている」という自分自身の気持ちは消えない。むしろ消えないことのほうが正しい。だからそちらの正しさに焦点を当て、「母に恐怖を感じる自分は間違っていない」と認識する必要がある。そして湧いてくる母への恨みという自分の感情を否定しないことが大切だ。恨みきる作業を積極的に進めるのが効率がいいと思う。
 檻のある世界を否定し、母を恨みきるためには、自分が間違っていないという世界に触れるのが手っ取り早い。私の場合は、檻のある世界を否定する専門家たちの本(『毒になる親』『母が重くてたまらない』等)を読み、同じ悩みの人が集まる自助グループなどに行き、セラピーやカウンセリングでお金を払って悩みを聞いてもらった。「母を恨んでいい」と思っている人たちに会うのと作業が進めやすい。友人や夫やパートナーに話すことというのは、限界がある。彼らは日常を共にする人たちだからだ。日常というのは、「母を恨む」ということはいけないこととされている。そういう場で母への恨みを爆発させて自分を回復させようとすると、友人や夫やパートナーは抵抗を示す。“分かってくれない”ことで、彼らに対して不必要な怒りや恨みを持たなければならなくなる。「悩みを解消する」「心をらくにする」ということを専門に考えているもの、場所、に意識を向けるだけでも違うと思う。恨んでいい場所で恨みきって、膿みを出せば、ゆっくりと落ち着いて、友人や夫やパートナーが聞きやすいような口調、言葉を選んで自分の気持ちを伝えられるようになる。そうすればきっと分かってくれる。
 私はそういう考えで暮らしており、周りも同じ感じの考えの人たちが多い。たまにメディアで露出した際に、「母親側」からの辛辣な言葉というのもいただくことがある。だが、露出によって「それまで自分の苦しみがなんなのか気づいていなかった」という層の人へ声が届くということもある。
 「母親側」の人たちへ言いたいことは今のところ特にない。あくまで「母との関係に悩んでいる、そういう娘」だけで話していればいいことだと思っている。直接対決は、母親側のメルヘンホールを強大にするだけである。母との対峙は、まずは娘が回復してからの話だと思っている。
 だけど時に「母親側」の人とトークショーをしなければならない事態になることがある。先日、結婚相談所の社長であるアラセブ(around70)の女性と大阪でトークショーをした。カルチャーセンターの講座としての依頼で、キャスティングと企画をしたカルチャーセンター側はほぼ何も言わず「お二人でご自由お話してください」ということだった。
 事前に社長さんのブログを読むと「娘の結婚相手は医者じゃないとだめ」とか「海外赴任してる人と結婚させたい。私も海外旅行に行けるし」とか言う母親がいる、という話がブログに書いてあったので、その手の「困った母を対応しながら結婚する方法」みたいな話をするんだと思っていた。初対面で挨拶して少し打ち合わせをした時も、そう感じた。
 いざ始まると、「母は娘を大きな愛で包んでおります。親子の絆は絶対に切れません」と社長さんは語り出した。「えっ?」と思いながら、私は私で、自分が母との関係に苦しんできたこと、本を出して同じ苦しみを持つ女性にたくさん会ったことなどを話すと、社長さんは客席に向いて「誰でもお母さんのことが大好き。お母さんのご飯で育ってきました。だからみんなお母さんのご飯の味が大好きなんです」と続ける。トークショーではなく、二人の極端に真逆な考えを持つ講師が同時に同じ部屋で講義をしているみたいな状態になっていた。からまなければ、と思い私は「結構、お母さんのご飯がまずかったり、腐ってるものを出されたりしてつらかった、という人もたくさんいるんですが、そういう人については先生、どう思われますか?!」とテンション上げて謎の質問をした。社長さんもおそらく困っただろう、「そういう特殊な家庭は少ないから…」と言っていた。私は「結構いるんですけどね…」と言うしかなく、完全に噛み合わない。
 社長さんは「娘の結婚を邪魔する母親はいますけれど、それも母の愛。女の性(さが)。女は愚かなんです」という。おそらく、愛がいきすぎて愚かなことをしてしまう、という意味だと思うが、そのあと「女は愚か、男はえらいんです」「男はえらいから女が支えなきゃいけない」と言う。ビックリしてお顔を見ると、メタファーではなくマジで言ってるということが分かり、驚愕した。「ちょっと私は『男がえらい』にはうなずけない思想を持っておりますが、それは今日は置いといて笑」とごまかしつつ、結局何を言っても社長さんの言うことの“反論”にしかならない私の話。それが終わると今度は社長さんが客席に向かって「母の愛は偉大です」と言う。両者演説でトークにならず、でももう始まってしまったから90分やらなければならない。社長さんもきっと大変だったと思う。
 私の「母とのやりとりでボロボロになった心身を回復するには、いったん母を恨みきるしかないと思う」という話に対して「それでも母と娘の縁は切っても切れないから大丈夫よ」と社長さんが言ってくる。私としては「縁は切っても切れないからこそ大変深刻な事態になることがあり、『仲直り』が親子関係の正解ではない」という話をしているわけで、だからそこでどうしても「そうですね」と同意するわけにはいかない。社長さんが悪いわけでもなく、社長さんの考えがおかしいとかって話でもなく、私も別に社長さんの意見を否定したいわけではないので困惑しながらも、社長さんの言っていることに「いやっ、あのっ、それはですねっ」と、反論を続けるしかなかった。
 「今日は重たい話を聞いてしんどくなっちゃった人もいると思いますけれど、本当に来てくださったかた、ごめんなさいね」とか「こんな話を聞いて、結婚したり子どもをもつのが怖くなってしまいそうで、ごめんなさい、心配しないでね」と、社長さんは客席に向かって、(田房の発言を)何度も謝罪するのである。私は苦笑いしながら、セラピーなどをうけるという「専門家やプロに頼むのがいい」という考えの話をすると、社長さんは「セラピーとかカウンセリングとか、私の時代では考えられない。本当にそれ、必要ですか?」と、衝撃的な発言をしておられた。
 確かに、今の70代の人たちには、必要なかっただろう。男たちは女たちに自分のストーリーの登場人物であることを強要し、社会的にもそれが通っていて、結婚したら専業主婦、育児だけするのが当たり前と家に閉じ込めた。彼女たちこそ、猛獣にやられボロボロの状態だったのである。しかし逃げ出すことなどできず、そんな概念もなく、だたゾンビのように自身も猛獣化するしかなかった。その鬱憤を晴らしたのが、昭和40年代50代に生まれた子供である。言わば子供が母親の気をらくにしてあげるセラピストの役目をしていた。セラピーなんか必要なくて当然である。
 延々と娘に愚痴を言い続ける母。「もう聞きたくない」と言われてもずっとずっと、同じ愚痴をつぶやき続ける母。何十年も前にあった出来事に対する愚痴を、何度も何度も繰り返す母。「いい加減にして!」と怒ると、「じゃあ私は誰に愚痴ればいいのよ!」と逆ギレされる、という話は、「あるある」である。
 社会的に、不具合な部分は女に任せればいい、女の不具合な部分は子供に任せればいい、という時代。「私は誰に愚痴ればいいのよ!」は、母親側からしたら、至極まっとうな言い分である。
 「母は娘を愛しているし、娘も母が大好きだから大丈夫。ねっ」というまとめにどうにかもっていこうとする社長さん。私としてはうなずけないまとめなので、どうしても抵抗するしかなく、未だ攻防戦が続いた。
 来ていただいたお客さんが、どういった感想を持ったかは分からない。帰りや別の機会に私に向けて温かい言葉を言ってくれたお客さんもたくさんいた。嫌な気分になったり怒った人もいるだろう(このイベントに関わらずイベントというのはそういうものだと思うが)。この講座の参加費が4000円近い額であり、カルチャーセンターから送られてきた告知チラシを見て知った私は仰天した。とてもじゃないけど高いと思った。人数が増えても私の出演料は変わらないというシステムなので、金をくれたらもっと頑張るとかそういうわけじゃないけど、何をどう頑張ればいいのか不明な感じで当日を迎えたイベントだった。
 だけど、終わってみると、あんなイベントはなかなかできない、と今は思っている。まさに、「母と娘の会話」を意図せず再現したイベントだった。
 娘は、具体的な出来事や実例を延々と述べる。母は「家族」とか「人」とか「女」とか「愛」という漠然とした言葉を使い、スモークを炊いて視野を攪乱してメルヘンホールに相手を導こうとする。これは弱者からの強者への反撃の構図そのものであり、学校でのいじめやハラスメント、全部にあてはまると思った。
 私が言っていることは、ただ耳に入るだけで「母親側」の人たちにとっては、罪悪感を刺激されるものなのだと思う。結婚・出産するのは当たり前、仕事するなんてとんでもない、「育児だけがお前の仕事だ」と言われ、子どもを「どこに出しても恥ずかしくない大人」にすることだけが社会から与えられる自分への評価のすべてであり、「いい母親」でいることだけが、この社会にいられる免許みたいなものになっている。(昔だけじゃなく、いまも私の同年代の間でもそういう世界はあるが)
 子育てが終わったのに今更「お母さんの育て方はヒドかった」と子どもから言われるなんて、後ろから味方に刺されるようなものだと思う。意味が分からないんだろうし、私はどれだけがんばってきたか、お前は黙ってろ、と言いたくもなるだろう。
 社長さんが、まとめに屈しない私との攻防に白熱し、最後に言ってた言葉が印象的だった。「頭のいい女なんてたくさんいらないんです。女がみんな頭がよかったら、この世の中は回らないんですよ」

 新大阪駅の土産屋で「じゃりン子チエ」のキーホルダーを見つけた。テレビで観るたび、チエちゃんは働かない父の代わりに、小学生なのにホルモン屋を一人で切り盛りしていた。男勝りで大人勝りな女の子。社長さんの子供のころってこんな感じだったんじゃないかなってなんとなく思った。社長さんだけじゃなく、私たち女の多くは、「チエちゃん」な女の子であることをずっと求められて応えてきた、そういう感じがした。
 チエちゃんのアニメの声優は中山千夏さんだ。中山さんは母との葛藤を本にしている。その本が発売された時、私はリアルタイムに母との絶縁のことでもがき苦しんでいた。発売記念トークショーを見に行った。中山さんという同じ悩みを持つ“先輩”の言葉を聞くだけで、水分のない体で水を飲んでいるような蘇生感を感じた。
 じゃりン子チエキーホルダーにはいろいろなものが詰まっていた。買うしかない。レジへと急いだ。

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田房永子(たぶさ・えいこ)

漫画家・ライター
1978年 東京都生まれ。漫画家。武蔵野美術大学短期大学部美術科卒。2000年漫画家デビュー。翌年第3回アックスマンガ新人賞佳作受賞。2005年からエロスポットに潜入するレポート漫画家として男性向けエロ本に多数連載を持つ。男性の望むエロへの違和感が爆発し、2010年より女性向け媒体で漫画や文章を描き始める。2012年に発行した、実母との戦いを描いた「母がしんどい」(KADOKAWA 中経出版)が反響を呼ぶ。著書に、誰も教えてくれなかった妊娠・出産・育児・産後の夫婦についてを描いた「ママだって、人間」(河出書房新社)がある。他にも、しんどい母を持つ人にインタビューする「うちの母ってヘンですか?」、呪いを抜いて自分を好きになる「呪詛抜きダイエット」、90年代の東京の女子校生活を描いた「青春☆ナインティーズ」等のコミックエッセイを連載中。

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