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世の中に知らせてあげなきゃって思ってた。

田房永子2015.11.22

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 11月21日土曜日の午後、ライターの小川たまかさんとモデルの前濱瞳さんと、痴漢についてのイベントをしました。それで感じたことを書きたいのですが、その前にそこに至った経緯を長くなるけど書きます。
 私は2011年の2月(32歳の時)に、渋谷駅の構内に貼ってある「痴漢は犯罪です」ポスターを見たことがきっかけで、痴漢犯罪について調べたりネットに書くようになった。いつも目に入っていたはずなのに、その日は、そのポスターにギョッとした。
 中高生の頃、あんなに電車内で痴漢に遭ってて、それを毎日どういうことなんだって友達と討論してたのに、20歳くらいからパッタリ被害に遭わなくなってから、すっかり忘れていた。
 毎日みんなで一緒に、痴漢に対して、何もしない大人に対して、憤怒してたのに、まるでこの世から痴漢犯罪はなくなったみたいな感覚で12年間過ごしていた。
 だけど、このポスターが貼ってあるってことは、いまもあるんだ。私が乗っているこの電車の中で、私みたいに、私の友達みたいに、人知れず痴漢に遭って困ってる子ども達がいるんだ、って思った。
 震えるくらいのショックだった。びっくりした。忘れていた自分に。痴漢がなくなっていない世の中に。
 もうほんと、いてもたってもいられなくて、どうしよう、どうしようって気持ちで全身がワーッてなった。
 中高生の時、「どうして痴漢に遭わなきゃいけないんですか?」って聞いてもなぜかヘラヘラと笑って「春は変態が出るからねえ」みたいなことしか言わなくて痴漢が大好物の制服という格好で何百人の女子を学校に通わせているくせにしかも毎朝大量の生徒が痴漢被害に遭っていることを知っているくせに痴漢対策の指導なんか一切やらなかった先生たち。
 隣にいる中学生の私が痴漢に遭ってても全くなんにも気付かない乗客たち。
 痴漢に遭った時はたった一人で立ち向かわなきゃいけない理不尽。
 乗客たちは気付いてさえいない状況で「痴漢に遭ったら声をあげろ」「助けを求めろ」「被害届を出せ」と、痴漢に遭う子どもにすべての負担を背負わせてる社会。
 あの頃はそんなふうにちゃんと言葉にはなってなかったけど、あんなに大人たちに対して怒ってたのに、いつのまにか自分もあの一員になってしまっていた。そのことに本当に驚いたし、すごく嫌で嫌で、すぐさま痴漢撲滅団体みたいなのに寄付したい、と思った。
 その団体に入って表だった活動をする気はないけど、寄付だけでもしたい。とにかく何か行動を起こした気になりたい。そうじゃないと自分がおさまらない。とにかくお金を払わせてくれ! って思った。
 だけどそういう先が見つからず、もうどうしようもなくなって、ネットに書いたり調べたりするようになった。
 2013年くらいまでは、自分一人でカッカしている感じだった。痴漢とかそれをとりまく社会に対しての私自身の怒りがすごすぎて、最近みたいに痴漢被害のことがネットのニュースで取り上げられたりあまりしてなかったし、なんか自分と社会に温度差があった。もちろん、同じように怒ってる人たちはたくさんいることも知ることができた。だけどそれ以上に、自分が怒れば怒るほど「たかが痴漢、そこまで怒ることでもないでしょう」っていう共通認識が世の中にあるってことを確認するっていう感覚が強かった。
 2014年から、少し変わってきた。AERAで痴漢犯罪について書かせてもらえることになった。さらに、それまでは「痴漢についての本を書きたい」って出版社に提案しても、「痴漢でまるまる1冊だと読む人がいない」ということで会議に通らなかったのに、本を書くことが決まったりした。そして私自身、牧野雅子さんの「刑事司法とジェンダー」(インパクト出版会)を読んで、加害者側の感覚に触れたことも大きかった。そこから「どぶろっくと痴漢の関係」というコラムを書いて、それがたくさん拡散された。あのコラムだけがきっかけではないけど、2014年に社会的なレベルで、痴漢犯罪の認識が、痴漢がない社会に到達することをゴールと考えたら1ミリとかそのくらいの微々たる量だけれども、何かが動いた感じが明らかにあった。そして、ライターの小川たまかさんから痴漢のことで取材を受けた。
 それまで、いつか痴漢についてのイベントをしたい、と思ってたのだけど、具体的に動くことはなかった。それは一人でやっている、という感覚が強かったからだと思う。小川さんに会って、小川さんとイベントをしたい、と思った。小川さんが痴漢についての取材をしたモデルの前濱瞳さんも一緒に出ていただけることになった。前濱さんのこのブログ(「美女会と性犯罪」)、を読んで、モデルをいう仕事を選んだ経緯、理由がとても興味深くて、そういう話って聞いたことなかったから面白いと思ったし、共感できたことに驚きもした。
 私がそのあともグダグダしてたので2015年が終わりそうになってしまったが、2015年の11月にやっと、イベントができた。
 長くなったけど、経緯は以上です。
 いつもイベントは、告知しまくらなくても大丈夫な感じなので、今回もそんな気でいた。そしたらイベントの5日前になんと予約人数が9名だった。40人くらい入るところなのに。一瞬焦ったけど、痴漢の話題だからなのかな、と思って、それはそれで受け入れなければなあ、とか思ったり、9人でもイベントができてほんとうれしいって思ったり、でも会場に申し訳ないなと思ったり、それで、お客さんが来るか来ないかは別として、とにかくイベントをする機会に、それを名目に、伝えたいことをブログに書こう! と思った。そしてこれを読んでもらおう、とツイッターに連投しまくった。
  それがこれ(http://mudani.seesaa.net/article/429910501.html
 当日、会場は超満員だった。ギチギチだった。来てくださった方、本当にありがとうございます。
 私はイベントの時はいつも、一応、人前に出るからそれなりの格好をしようと思ってて、つまり普段着では出ないようにしてるんだけど、(バンドのライブに行ってバンドの人たちが普段着で出てくると、なんかすっごいガッカリしてたから)でも今回は、リラックスして話したいことを話すんだ、と思って、スウェット素材の服にした。おかげでスムーズに喋れた。内容は、WEBニュースサイトの記事になるので、そこで読めると思います。
 今回このコラムに書きたいのは、そういう活動をすることについて。
 痴漢の話をネットですると、一部の人がものすごく怒ってくる。どんな時でもそれは「普通の男まで、痴漢扱いするな」という言い分である。私の書き方が、「男」全般を指していて、「主語がでかい」というのもよく書いてある。
 そういう意見は、前はしっかり読んでいた。だけど今はもう見ない。目に入ってしまうことはある。でも見ない。私が戦うのはそこじゃないからだ。
 去年までは、そう言ってくる彼らにこそ分かってもらおう、分かってもらうべきなんだと信じて挑んでいた。だけど彼らの言ってることを読んで体内に取り入れ解釈して自分の意見を発してさらにまた同じことを言われるということを繰り返していると、心身へのダメージがひどくて、ヤバくなってくる。生活に支障が出てくる。ネットの批判を読んだくらいで、頭や体が動かなくなるなんてこと、あるわけない、自分はそんなにヤワじゃない、ってどんなに思っても、「自分に向けられた悪意ある言葉」というのは、前後の脈略関係なく、人間にダメージをもたらす。自分って生きていていいのかなと普通に思うようになる。
 著述業の先輩たちに相談するが、先輩たちは「見ない」の一言だった。「なんで見るの?」と聞かれる。ネットの批判や反発のなかにも真理があるはずだ、と思っちゃっていたから、どうしても「見る」作業をやめられなかった。
 去年はそことの戦いだった。私はほぼ1年かけて、それなりの費用も費やし、カウンセリングやセラピーで「ネット上の批判とどう向き合うか」を模索した(バカかと思うかもしれないけど、マジです)。
 そのことによって精神の筋肉がムキムキになってきて、私は批判を読んで一人でダメージを受けて生活に支障が出る、というサイクルから抜けることができた。(今回のテーマとは違うので、このことについてはまた別で書ける機会があれば書きたい)
 だから私はつい最近まで、「批判」のほうに目線がいってたのだけど、イベントをすることになってみて分かった。自分が本当に一番こわかったもの。それは「同志からの指摘」だった。
 自分が発言した言葉が、痴漢被害に苦しんでいる人をさらに傷つけていたらどうしよう。「田房さんの言ってること、おかしいですよ」って、痴漢撲滅について調べている人から言われたらどうしよう。恥をかきたくない。間違えたくない。
 そういうのがものすごくあった。だからなかなか、イベントもできなかったんだと思う。それは同時になにを指すかというと、一人で手柄が欲しい、という欲求である。私が一番、知っていたい、詳しい人でありたい、みたいなこと。それは何かに取り組むときにとても大事な感情だから別に悪いことではないと思う。だけどこの問題においてはそのこだわりは手放したほうがいい。そう分かってたけど、「自分が間違うこと」が許せなかった。
 でも、対批判のための精神筋肉鍛錬が、意図せずそのこだわりを手放す作業にもなっていたことを感じた。
 やっぱりどうしたって、私一人が発することが、誰も傷つけず疑問を与えずにいることなんてあるわけがない。
 間違っていてもいいんだ、って思えた。
 ネットの批判とやり合うのは、「間違いの正し合い」だ。私が言ったことに対して、「ババア」とか「バカ」とかって言葉で「お前は間違っている」ということを言われる。それに対して私は「あなたこそ何も分かってない、知らない。間違っているあなたたちに私が教えてあげます」って感じで対応してた。
 それはそれでいいんだけど、でも痴漢という話題では、そういう話は成りたたない。まだ、そもそもの「痴漢の正しいとらえ方」がない状態だからである。
 例えばオレオレ詐欺だったら、誰が悪いのかは一目瞭然だから、まず、こんな討論にならない。すぐにどうすれば被害者が減るかという話にいける。ほぼ全員一致でいける。テレビとかでやってるから、実態も知ってる。銀行のATMの前で「孫が交通事故で、いますぐ振りこまなきゃいけなくて」とか言ってるおばあちゃんがいたら、ああこれはヤバイってすぐに分かって係員に伝達したりできる。誰でも簡単に被害抑止に協力できる。
 だけど痴漢は、被害に遭ったことがある人と、ない人、都市伝説だと思ってる人、ひどい場合は痴漢被害よりも痴漢冤罪被害のほうが数が多いと思ってる人までいる。メディアの報道が一環してないので、まず知識格差がものすごい。
 さらに、他の犯罪のように、知らない人が聞いた時に「そんなことがあるんだ」と素直に受け取ってくれない。受け取ってくれる人はもちろんたくさんいるけど、「被害者が悪いんでしょ」「本当にそんなことあるの」と反応してくる人がものすごく多い。多すぎる。そしてどういう対策をとればいいかという話をしているはずなのに「どういう策を持ってるんですか」「僕らはどうすればいいんですか」「早く教えて下さい」「何もないんじゃ当事者が声出すしかないでしょう」と詰め寄られる。
 そんな感じで明快ではないから、目の前で痴漢が起こってても、どういう対応をすればいいか分からない。頭の中で「カップルでプレイをしているのかもしれない」ということにしてそのまま通勤してしまう。何も知らないからだ。

 本当に痴漢をなくそうとするには、まずはその「痴漢の正しいとらえ方」の知識、モラルの基盤からつくらないといけない。そのためにはメディアを動かすのが手っ取り早い。だけどテレビでは毎日のように痴漢が笑われ、被害がネタにされ、消費されている(オレオレ詐欺を、すりを、放火を、殺人を、そんなふうに扱うだろうか)。そのほうがメリットがある人、利益がある人、都合がいい人が多い、という証しだと思う。そこを崩し、ぐちゃぐちゃになっているモラルを立て直すのは、本当に大変な作業だけど、挑まなきゃいけないと思う。
 そのためにまずは、同じ認識を持つ人の数を増やさなきゃいけないんじゃないか、と思ってる。そう思ってるわけです。
 その活動をする際に、やっぱりどうしても「自分の間違い」っていうのは、出てくる。私はそれが怖かった。きっとそれは、他人の間違いを許してなかったからだと思う。
 間違い、つまり無知であること、それこそが悪である、と思っていた。だから世の中に知らせてあげなきゃって思ってた。
 そういうふうにしていると、自分が間違うことができない。だから自分は絶対に間違ってない、と思う相手にしか発信できなくなる。結果的に「批判」の人たちへ限定の呼びかけになってしまうのである。一番、不毛なやり方になってしまうのである。
 だけど本当はそうじゃなくて、同じ経験をして同じ怒りを持っている人たちとまずは大きな勢力(っていうとなんかあれだけど、そういう感じ)にならなきゃいけないんだと思う。
 だから、イベントをするまでのあいだ、自分の間違いに寛容になろう、と思った。田房さんなんでそんなこと言うのって思う人もいるはずだから、そういうのは一瞬ショックではあるけど、でもその意見のほうが正しいなとか、納得できるなって思ったら、今まで自分が言っていた意見を変えていくことを恐れないようにしようと思った。知らないこと、間違うことを、なにも怖がることはないんだと思った。そう思っていてもうまくできないかもしれない。だとしてもその自分も許そうと思った。
 なんでこんなことを急に思うようになったのかな、と考えると、やっぱり1年かけて批判との向き合い方へ対策していって、「見ない」という、言い換えれば「そういう意見がこの世に存在することを許す」という姿勢を持つようになったからじゃないかと思う。
 それでイベント当日、「もし痴漢犯罪について思ったこととかあったら、ここのホームページの問い合わせのメールフォームから、送って下さい」と言ったら、何人かの人が感想を送ってくれた。その中に、「ひとつ気になることがあった」と言ってくれた人がいた。

さっきのブログにも書いたけど、私は、「痴漢は尊厳や安全を盗む、窃盗と同じだ」ってイベントでも言った。だけどメールをくれた人は、それに疑問が残ったという。
「『窃盗』という部分的な被害の言葉は、軽すぎるようにも感じられたのです。比喩ならば私は『傷害』と呼びたい」
 と書いてあった。本当にそうだなあと思った。私は、痴漢犯罪をまったく知らない人に向けて、「痴漢は窃盗と同じだ」っていう表現をしたけど、窃盗って物を盗るってイメージだから、傷害のほうがいいかなと思った。今度から、その場に応じて、いろいろ表現を変えてみようと思った。
 他にも、男性の方の感想(下記に詳しく書きました)をネットで読めたりして、やっぱりイベントをしてよかったと思ったのです。そしてまた、イベントをしていきたいと思っている。
【補足】
 男性の感想はこれです。面白かったので、勝手にリンクを貼ります。
「痴漢についての対談を聞いて痴漢についての対談を聞いて ”田房永子×小川たまか×前濱瞳『電車内の性犯罪をなくしたい! 被害をなくすためにできることは?』” 編集」
引用→「そして男性同士だと痴漢の話題は本当に出ません。されたとか、したとか関わらずに殆どありません。たぶん、アゼルバイジャン共和国についてのほうがまだ話題になる可能性があります。ホモソーシャルだと痴漢をするのも、されるのも落伍者で恥だと考えられますので、痴漢の話題は完全に蓋をされています。そして、その蓋をあけることは男性社会から外れるリスクを伴うので、誰も話題にしたがりません。」
 こういった話をもっと聞きたいし、男性たちでしてほしいと思った。
 私は20代の時、痴漢に遭っていた話をネットに書きづらかった。それは自分がどう思われるか、なんて話ではなくて、それをネタにされるんじゃないかっていうのが怖かった。オナニーのネタ、飲み会の話のネタに。
 その怖さというのは、そうやって男性社会から受けた被害を男性社会に還元してさらに男性社会に消費されるということ、自分がそうやって搾取され続ける側でいることを確認する怖さ。そこに無自覚である男たちの無邪気さが恐ろしいし、そんな男たちとこれからも社会で共生していかなければならない絶望からの恐怖である。そして自分が書いた内容で、そんなに女に性的いやがらせしてるやつがいるんだ、と男たちに知らせて触発させてしまうこと、さらに被害を増やすことが、本当に本当に怖かった。だから言えなかった。
 「男」というだけでいっしょくたにそういう疑念や恐怖を持つ自分、それはもはや自分のせいではないのに、でもあなたのせいではないよと誰も言ってくれない。自分でも、自分のせいじゃないとはハッキリ思っていなかった。
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田房永子(たぶさ・えいこ)

漫画家・ライター
1978年 東京都生まれ。漫画家。武蔵野美術大学短期大学部美術科卒。2000年漫画家デビュー。翌年第3回アックスマンガ新人賞佳作受賞。2005年からエロスポットに潜入するレポート漫画家として男性向けエロ本に多数連載を持つ。男性の望むエロへの違和感が爆発し、2010年より女性向け媒体で漫画や文章を描き始める。2012年に発行した、実母との戦いを描いた「母がしんどい」(KADOKAWA 中経出版)が反響を呼ぶ。著書に、誰も教えてくれなかった妊娠・出産・育児・産後の夫婦についてを描いた「ママだって、人間」(河出書房新社)がある。他にも、しんどい母を持つ人にインタビューする「うちの母ってヘンですか?」、呪いを抜いて自分を好きになる「呪詛抜きダイエット」、90年代の東京の女子校生活を描いた「青春☆ナインティーズ」等のコミックエッセイを連載中。

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