面談に際して、私は黒いスーツで出勤した。リクルートスーツほど野暮ったくはないが、入行式の日に着ていたものほどフレッシュでもない。ほどほどのおカタさで、中堅と呼ばれる今の年次で着ていても、お客様に違和感を与えないデザインである。
しかし、黒スーツで出社することは銀行内において特別な意味があった。何か人事的に重要なタイミングで、男性は白シャツ、制服ではない女性は黒スーツ、という不文律があったからだ。
だから異動の予感が蔓延する期末や、人事面談から少し経った月末等、「なんとなくそういう予感」がしている男性は白シャツで出社する。そうすると出社するや否や「あれっ、もしかして~?」等と方々から声がかかり、じわじわと場が緊張していくのだった。
お沙汰を待つ身でありながら、直属の課長や次長から「支店長室に」と声がかかるのを待つ同僚たちはちょっと得意そうで、異動の経験がない私は繰り返される一連の儀式を奇妙で面白いものと思っていた。昔は夕方が異動発令のタイミングだったらしいが、私が入行した頃には始業時刻の8時40分ぴったりに声がかかるように儀式の時間帯が変わっており、かつてのタイミングが身に染みついている世代の上司たちは毎回毎回、誰かしらが必ず「異動発令が朝って、なんか落ち着かないよなぁ」と言っていた。
ちなみに、誰も異動しない時も、もちろんある。
誰にも声がかからず、白シャツ出社した人々を始めとする行員の期待と不安の眼差しを一身に浴びた課長が「どうした、朝礼行くぞ」と言ってしまうと、誰も異動しないことが確定する。フライングで白シャツ出勤してしまった人は周囲の目を気にするように照れたような表情で笑い、支店長室から現れた支店長が「あれっ、どうしたの白いシャツなんか着て」とからかうと周囲の行員は腑抜けたように笑った。一連の全てが、幾度となく繰り返されていたことだ。一番下っ端の私でさえ役割に乗って自然に笑い、「フライングですね~」などとガヤ芸人の一人として振る舞えるほどに。
さて、いざ黒スーツで出勤してみると、白シャツで出勤してきた同僚たちのような高揚感は一切なかった。
考えてみれば当たり前の話で、私には緊張する要素がない。ただ、叱られる要素はいくらでもあった。客観的に見たら、お客様のお孫さんに手をつけた大罪人なのである。しかし、その点に関しては概ね事実だったので、別にどうということはない。
課長には「月曜のお時間ある時に面談お願いいたします」という文面で面談のお伺いを立てていたので、何時に呼ばれるのかはっきりわからなかった。ただ、前の週のうちに、あらかじめその日の日中の予定を詰め込んでおいたので、面談は夕方になるだろうと読んでおり、果たしてその通りになった。
黒スーツで出社した私を見て課長は一瞬ぎょっとした様子だったがすぐに取り繕うように笑い、「そしたら、例の件は夕方な!」と元気よく告げたのであった。
かくして夕方の面談まで猶予を得た私は、平然と恵美子さんのところに行った。
打ち合わせは、以下の通りであった。
「私が直接ミナトちゃんのお店に行って、支店長さんに直談判するわ!」と息巻くお嬢さんを横目に、恵美子さんは「どこまで進んでいることにしようかしら?」と声に出して考えていたので、私は就業規則に関する説明をした。
お客様と個人的な会食の場を持つことは、就業規則に反する。
というか、食事をしてもいいことはいいのだが、業務上、真にやむを得ない場合に限り、その理由と日時、場所などの詳細を申請書に記入し、直属の上司と支店長の印鑑を押して貰って、初めて許可が下りるのである。なお、費用を先方に負担してもらう場合は更に手続きや申請が煩雑になる。
もちろん山田仕郎との会食は、どう転んでもアウトである。
私の説明を受けて、恵美子さんは「じゃあ、食事に行く前ってことにしましょうね」と何でもないことのように言った。
「そうしますと、私が恵美子さんから今回のお話を頂いて」
「その前に、仕郎が債券買ってるわね」
「あっ、そうでしたね」と私は頷いたが、そうではない。
しかし恵美子さんがそうだとおっしゃるのなら、そうなのだろう。
「そうすると、私が仕郎さんに債券のご案内をして……、恵美子さんから今回のお話を頂戴して……、それで」
考えながら喋っていたのだが、「それで、仕郎のお嫁さんになろうって決めたのよね!」とお嬢さんがもの凄い勢いで続きをまくし立てたので、私は笑ってしまった。
正しくは、お花ちゃんにプロ―ポーズを断られ、恵美子さんにその旨報告をし、「それならばうちの仕郎はどうだ」という提案に私が一も二もなく乗っかったのである。債券の案内をしたのも山田仕郎の顔を知ったのも、その後だ。
お嬢さんは「あはは」等と笑う私の前で、夢見るような表情を浮かべ、言葉を続けた。
「私たちは元々、ミナトちゃんがうちに入ってくれればいいなぁと思っていたでしょ、そこに、仕郎と銀行のお仕事で会う機会があったでしょ、それで、仕郎もミナトちゃんを気に入って……」
お嬢さんの中では、それが真実になっているらしい。
私が笑顔を崩さず恵美子さんを見ると、「嘘をつく時にはね、多少の真実を入れておかないとだめよ」と深く頷いてみせた。
恵美子さんのお宅を訪問する前後で、いくつか実績に繋がりそうな材料を得た私は結局、窓口が閉まる前に支店に帰ってしまった。
「ただいま戻りましたぁ」といつものようにフロアに入って大声をあげると、課長が顔をあげて頷いた。課員はいつも通りである。
席で粛々と、伝票や預りの処理をしていると、階下の窓口のお姉さまから「勘定ゴメイです」と内線が入ったようで、背後の課長から「菊池ィ」とお呼びがかかった。何やら気を遣ってくれたらしく、「ちょっといいか」と横に立つと、「預りつけ終わったら、ちょっと会議室」と言い残して先に会議室に消えてしまった。
もちろん課長の言葉は周囲にも聞こえているので、周りが一気にざわつくのがわかった。皆、残された私を好奇の目で見ている。
「わかりましたぁ」といつものように返事をして、淡々と伝票の処理を済ませ、課長の検印箱に入れてそのまま会議室に行こうとすると、ロビン先輩がスッと横に来た。
「菊池ちゃん呼ばれたでしょ。課長、何かしら」
「さぁ、何でしょう」
私がしらじらしく首をかしげると、ロビン先輩も口もとに手をやって考えている。
「支社との協働の件とか、何か案件でもあるんじゃないですか」と言ってみたが、ロビン先輩は
「うーん、なんか人事っぽいのよね」と考え込んでいる。鋭い。
ふとマミーポコを見ると、小動物が物陰から辺りの様子をうかがうような面持ちで、こちらをじっと見ていた。
私は遠くのマミーポコににっこりと頷き、ロビン先輩に「だーいじょうぶですって!」と言い放って会議室に向かった。