ラブピースクラブはフェミニストが運営する日本初のラブグッズストアです。Since 1996

ajumabooks

マツコ・デラックスは、ピタッと入り込んでくる

田房永子2016.10.12

Loading...


 去年「自意識過剰で被害妄想な女は笑ってよい」というコラムで、「視聴者の既にある心理の形に有吉やマツコ・デラックスが変形して入ってきて、ピッタリおさまるのが快感、というタイプの笑い」が、最近の流行だということを書いた。

 「5時に夢中!」と「マツコの知らない世界」と「ホンマでっか!?TV」以外のマツコ・デラックス(敬称略)のレギュラー番組は毎週ほぼかかさず見てる。
 マツコ・デラックスはグネグネと変形するタレントだと思う。冠番組でも一つ一つその態度やキャラクターがちょっとずつ違う。
 番組によってキャラクターを微妙に変えるというのはどのタレントもあるし、特にMCの位置にいるタレントはかなり変えるものだと思う。所さん(所ジョージ)なんて、BSでやってる「世田谷ベース」だと高圧的な人物に見える時が大変に多く、地上波で見る「理想の父親ランキング1位」なイメージの所さんとは別人で恐ろしいくらいだ。
 そういう風に、雑に言うと番組によって「猫かぶってる」か「自由にやってる」か、の違いはたいていのタレントに感じる。
 だけどマツコ・デラックスの場合は、その番組ごとに「猫」と「自由」を変えているというより、その場の雰囲気や目の前にいる人の空気をその瞬間瞬間に読んで、自分を変形させて対応している、っていう感じがすごくする。

 特にそれが分かりやすいのは「マツコの知らない世界」だと思う。毎回違う専門家が出てきてマツコに得意分野を解説するという番組。相手の見た目や雰囲気や口調やクセやアクをマツコが3分くらいで咀嚼し、この人は視聴者からはこう見えるだろうという最大公約数なベース(ウザい、顔の割に意外な趣味、などなど)をマツコが瞬時に作り、それに沿って分野そのものと専門家に対してリアクションしていく。見ているほうは、未知なる知識を仕入れながら、目の前のものに対して感じた違和感や驚きを、マツコ越しにテンポ良く解消する、というテトリスみたいな快感を感じることができる。とても収まりのよい番組だと思う。
 「マツコ&有吉の怒り新党」は、数年前はマツコが有吉の意見ににじり寄る様子が濃厚だった。視聴者に対して同調したいというより、何よりも「有吉と意見が分かれたくない」というマツコの様子を見る機会がとても多く、有吉の発言を気にしながらその懐に変形して入っていく、入っていこうとする、というシーンがとても多かった。最近はマツコからそういったことがあまり感じられない。有吉とのやりとりに慣れてきたのかな、と思う。

 今は終了してしまった「マツコとマツコ」は、マツコの尋常じゃ無い変形力が発揮される番組だったと思う。
 マツコにそっくりなアンドロイドを作って、いろいろな実験をするという内容。東北地方の雪の中にマツコのアンドロイドを置いて、通りかかった人が本物のマツコだと思うかどうか、という実験をしたり、毎回、マツコ本人と全く関係ないところにアンドロイドを置いてドッキリみたいな実験をしていた。声も別人(モノマネタレントのホリ)が担当していて、完全にマツコ・デラックスとは別物で、その模様のVTRをマツコ本人が見てコメントする、という番組だった。
 私は毎週この番組を見ながら、「もし自分にソックリなアンドロイドを作られたら絶対に嫌だ」と思っていた。作られて、知らないところに放置されて、別の人が自分の声や言うことを真似して知らない人と会話する、なんて、とんでもない悪趣味な行動をされている! と鳥肌が立つと思う。別の人間によるなりすまし、よりも、機械で作られた自分、というところに恐怖を感じる。普通、そうじゃないだろうか? 私が過敏だろうか?
 私はそういう気持ちで見ていたので、自分ソックリなアンドロイドを勝手にいじくられてオモチャにされているVTRを普通に、自然に、フラットな表情で見られるマツコ・デラックスって、ちょっと尋常じゃない、と思うようになった。すごくハッキリ物を言うから自分があるように見えるけど、実は「自分」というものが薄い人なんじゃないだろうか、若しくはテレビの時はそれをものすごく薄くできる人なんじゃないだろうか、だから変形できる人、なんじゃないだろうか、と思うようになった。

 マツコ・デラックスの“変形芸”の真骨頂が見られる番組は「夜の巷を徘徊する」だと思う。マツコが夜の街を歩いて、通りかかった人にいきなり話しかけたり飲食店に突然入って注文したりするロケ番組。
 最近は行き先が観光地みたいな場所ばかりになり、行くことを先方に事前に伝えている感じがする。だけど最初の頃は予告なしにいきなり街にマツコが出没するという番組だった。
 マツコは出会った知らない人たち相手に「おっ なんだオマエ、それいいじゃん」とか「アンタちょっとそれなんかヘンよ」的な、初対面としては“一歩踏み込んだ”発言をしていく。いきなりそんなこと言われたらムッとすることも、マツコが言うとだいたいみんな笑って受け入れる。突然現れたマツコ(と撮影隊)に、たいていの人は「わあ~マツコさんだあ」ってはしゃいで写メを撮ったり握手を求めたり、自分の店に入るように誘ったりマツコを歓迎する。(怒られる時もあるのかもしれないけど、そういうのは放映されない)
 だけどたまに、マツコが「ちょっとい~い?」と入っていって、みんなニコニコとマツコの登場を喜ぶ中、一人か二人くらいぜんぜん笑ってない人がいることがある。そういう時、テレビの前の私も緊張する。マツコは、笑ってない人には話しかけないようにするのがとても自然で上手い。だけど、マツコは絶対、笑ってない人こそを気にしているだろう、というのが伝わってくる。
 マツコがすごいのは、笑ってない人を放置したままにせず、最後は絶対に微笑ませるところ。私が見ていてその率は今まで100%だったように思う。正面から直球で「迷惑でしょ?」と尋ねる時もあるし、遠回しにそれっぽいことを言って、笑顔を見せざるを得ない状況(ここで笑顔にならないと嫌な人になっちゃう感を空間に充満させる)を作る。最終的に、その場にいる人がみんな笑顔になり、つまりマツコを歓迎する態になる。見ている私も、ものすごくホッとして緊張が解ける。マツコの類い希なる対人技術によってゼロの空間に「緊張と緩和」が生み出される、すごい番組である。

 素人の前に芸能人が突然現れるというジャンルに「突撃!隣の晩ごはん」があった。巨大なしゃもじを持ったヨネスケが全国各地のマイナーな住宅街を訪れ、アポ無しでピンポンして「今食べている晩ごはんを見せろ」と要求する。よく確認せずにドアを開けてしまった主婦が「困る~、部屋きたないし化粧してないから困る~」と言っても、ヨネスケは瞬間的に家の中に上がり込み、「なにそれ! タコ?! 今日はタコの唐揚げ?! いいね! 新鮮じゃん!」などと大声を張り上げガンガン威圧し、話題をフライパンの中へ移動させる。オカアサンもつられて「そうなの、食べる? 揚げるね!」と言いヨネスケに振る舞う。
 かなりの拒絶をしないとヨネスケは家に入ってきてしまう。お茶碗片手に驚く家族を尻目にその人たちの晩ごはん(くたびれた煮物とか本当にガチの夕飯)をカメラで撮り、ヨネスケもその食べかけを食い、晩ごはんが既に終わっていたら冷蔵庫から残りを出させる。更に隣の家を紹介してもらってまた上がり込む。とにかく文字通り「突撃!」すぎるコーナーだった。
 絶対的な拒絶をする家も多く、そういう場合は入れないのでどんどんピンポンしていき、その地域一帯、全部の家庭が完全拒絶してぜんぜん入れない、という時もある。
 一度、上手く家に歓迎されて入ったはいいが、中学生の娘がテレビに映るのを嫌がり部屋に引っ込むと、それを引っ張り出そうとヨネスケが娘を追いかけ回して家の中を縦横無尽に走っていた時は恐怖を感じた。子どもの前で「子だくさんだね~、お父さん、夜、がんばりましたね!」とか言う男がテレビカメラを連れてやってきたら、逃げるのが当然だと思う。
 なのに、見ていると不思議なことに、だんだんヨネスケテンションのほうが普通のことになってきて、逃げる家族やヨネスケ入室を拒否する家族を「ノリの悪いヤツだなあ」と思ってしまう。いつのまにか、ヨネスケの圧によって、タコの唐揚げをノーメイクで振る舞う主婦と一緒に、テレビの前の私も無の状態、ヨネスケにされるがまま、になってしまうのである。「突撃!隣の晩ごはん」は25年以上続いた長寿コーナーだった。こんなにも長い間放映されていたといいうことは、ヨネスケの圧を嫌悪するよりも面白がる国民が多いという現れだ、と感じていた。
 ヨネスケは勢いと圧(とにかく声がバカでかい)と緊迫感のみによって場を制す。マツコのそれとは違う。ヨネスケのやり方が殴打だとしたら、マツコはマッサージである。

 マツコの真のすごさは、立ち去る瞬間にある。素人に絡み終わる(テレビ側の必要な素材が十分に撮れる)と、マツコは次の場所へ移るのだが、その際、必ず「ありがとな~」か「ごめんね~」を言うのである。肩を抱いて顔を近づけて「ごめんな、ごめんな」と言う時もあれば、「ありがとね、ほんと、ごめんねぇ~」と手を振る時もある。ほぼ必ず100%、「邪魔した自分」の存在を謝罪し感謝する。
 それまでの、いきなりそんな失礼なこと言って大丈夫か、笑わない人が笑ったけど強引に笑わせているのでは、というハラハラ感が、マツコの「ありがとねぇ~」「ごめんねぇ~」で帳消しになるのである。
 実際は、映っている人の中では「なんだよ、別にテレビなんて来て欲しくないのに、ついニコニコしちゃったよ」と思っている人もいるかもしれない。だけどその場では、テレビ画面の中ではマツコが失礼しっぱなしで終わることなく、マツコが自分のケツを自分で拭いて終わるという格好になる。だから見ているほうも、ふわっと心が軽くなる。

 私はこの「夜の巷を徘徊する」を見ていて、なんかこの、いきなり種を蒔いておいて最後は全て刈って去って行く人、どこかで見たことがある…と思い続けていた。

 ある時気づいた。マツコは「ノノシラー」っぽいんだってことに。

 ノノシラーというのは、私が作った造語である。言いたいことを言いたいだけ言ってくる、「罵る人」のこと。ノノシラーは、最後に「すくい上げ」をするという特徴がある。言いたいだけ罵りまくってスッキリしたら、落ち込んでる相手に「全部ウソだよ」とか「冗談だよ~」とか「あなたのことを愛してるから言うんだよ」とか言ったりする。めっちゃめちゃに叩き潰しておいて、そうやって最後に救い上げる。これがノノシラーの「すくい上げ」である。ノノシラーは、このすくい上げをすること念頭に入れてノノシーを行う。

 ノノシラーについて描いた漫画が、ここで無料で読めるので、ぜひ読んでください。
 「いったん親のせいにしてみたら案外うまくいった」の3話目(♯3)です。

 私が漫画に描いたノノシラーは、本格的に罵ったあとにそれを全てなかったことにする、というものだけど、マツコの素人絡みにも果てしなくそのケがある。
 「夜の巷を徘徊する」は、言い換えれば、マツコ側が自分たちの必要なもの(放映するための映像)を一方的に搾取するために、その人達の時間や空間をかき乱す。マツコの後ろについて回るカメラやディレクターたち、それらは姿は映らないが、声は入っている。マツコが言うことにとにかく徹底的に同意しまくり、決して逆らわない彼ら。
マツコは番組内で、スタッフたちが持ち帰るお土産をやたらと購入する。最初は自分のものだけ買っていたように思うが、ある時期からスタッフ一人につき数千円単位の物品を購入し配るというシーンが増えた。「いるだろ? いるだろ?」「お前んとこガキいるから二つ持ってけよ」とか言いながらその場で売っている食べ物とか身につけるものとかをものすごい量買いまくる。
 あの、本人が100%いるかどうか不明なものを本人の目の前で「いるだろ? 持ってけよ」と言いながらバンバン買い与える様子も、私にとっては、ノノシラーの特徴とものすごくかぶるのである。最近の回では、結婚式場に行って結婚式の相談をしているカップルに出会い、「これも何かの縁だから受け取って」と、お祝儀を渡していた。会って10分くらいしか経ってない全く見知らぬ他人のカップルにである。うわあああ! と思った。いくら入っているかは不明だが、この「現金渡し」は「すくい上げ」の観点から見て最大の威力を発揮するテクの一つだ。

 マツコという巨体を有した対人スキルモンスターと、彼女に従順な人間達がまとわりつきながら、空間に入ってくる。そこでマツコは爆買いし、現金を渡し、さらにそんな自分たちが非常識である、それを重々承知している、というのを去り際に「ありがとねぇ~ごめんねぇ~」に込めて投げてくる。
福山雅治はラジオで、マツコ・デラックスのことを「スタッフにも一般の人にもすごく気を使う人」と褒めていた。
 確かに、そういう感じである。ていうか、そうである。そう見えるし、それは事実だと思う。だけど、悪い言い方、見方をすると、マツコはとっても狡猾な技を使っている。
 だけどその狡猾さに人々は安堵する。あの番組を楽しく見られる人は明らかに安堵してると思う。私は確実に安堵している。

 私は「夜の巷を徘徊する」を観ていると、毎回すごくホッとする。この狡猾さに癒やされているのが自分だけじゃ無いんだ、と確認できるからである。
 母というノノシラーに育てられてきたために、どうしてもノノシラレ体質が抜けない、「すくい上げ」に弱い、という自分の性質がコンプレックスだった。だけど、「すくい上げ」に弱いのは自分だけではなく、多くの人に共通している、強い者に屈する時の一種の快感なのではないか、と思える。もしかしたら錯覚かもしれないが、その錯覚に酔うことができるから、「夜の巷を徘徊する」をこれからも見続ける。

tabusa20161012-1.jpg

********************************

tabusa:kireru.jpg田房永子さんの最新コミックエッセイは、「キレる私をやめたい~夫をグーで殴る妻をやめるまで~」
田房さん自身が今まで誰にも言えなかった深刻な悩みは、特定の人間に限って「キレて」しまうこと。普段は温厚なのに、キレると物を投げる、暴言をはく、つかみかかる、泣き叫ぶ…、理性を取り戻した後に毎回自己嫌悪に。
そんな辛く苦しい毎日から、穏やかな生活を手に入れるまでの日常をコミックにしました。ラブピースクラブ限定のサイン本です。
販売価格:¥1,080(税込)
●著者:田房永子 ●出版:竹書房 ●131ページ ●2016年6月30日

Loading...
田房永子

田房永子(たぶさ・えいこ)

漫画家・ライター
1978年 東京都生まれ。漫画家。武蔵野美術大学短期大学部美術科卒。2000年漫画家デビュー。翌年第3回アックスマンガ新人賞佳作受賞。2005年からエロスポットに潜入するレポート漫画家として男性向けエロ本に多数連載を持つ。男性の望むエロへの違和感が爆発し、2010年より女性向け媒体で漫画や文章を描き始める。2012年に発行した、実母との戦いを描いた「母がしんどい」(KADOKAWA 中経出版)が反響を呼ぶ。著書に、誰も教えてくれなかった妊娠・出産・育児・産後の夫婦についてを描いた「ママだって、人間」(河出書房新社)がある。他にも、しんどい母を持つ人にインタビューする「うちの母ってヘンですか?」、呪いを抜いて自分を好きになる「呪詛抜きダイエット」、90年代の東京の女子校生活を描いた「青春☆ナインティーズ」等のコミックエッセイを連載中。

RANKING人気コラム

  • OLIVE
  • LOVE PIECE CLUB WOMENʼS SEX TOY STORE
  • femistation
  • bababoshi

Follow me!

  • Twitter
  • Facebook
  • instagram

TOPへ