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賛否両論、映画『エル ELLE』が描く女性像


三木ミサ2017.11.02

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賛否議論の分かれている話題の映画『エル ELLE』。
『スターシップ・トゥルーパーズ』『氷の微笑』などを監督してきたポール・ヴァーホーヴェンの最新作だ。

「レイプ被害を受けた女性の復讐劇」という紋切り型の前振りを聞くと、ありふれたサスペンスかと思うのだが、それだけでは収まり切らないのは、主人公ミッシェル演じるイザベル・ユペールの多義的な演技(というか何考えているのかわからない)と、レイプ被害をストーリーの主軸にしながら、ヴァーホーヴェンの思想的なスタンスを示した映画ではないため、受け手に判断が委ねられるところが大きいからなのだろう。



性暴力が溢れたこの社会で、レイプという題材はどう考えても深刻なもので、慎重に扱う必要がある 。
余地の部分が大きいこの映画が、観客によってどう受け取られるのか。
映画そのものよりも、映画が与える影響や見方についての方が気になってしまった。



映画は冒頭から、テレビゲーム会社の社長として成功を収める主人公ミッシェルが、自宅に押し入ってきた覆面の男に襲われるところからはじまる。犯人がいなくなると、割れたガラスを片付け、訪れる息子のために出前の寿司を注文するミッシェル。
息子に被害を話すでもなく、後日レイプ被害に遭ったことを友人たちに打ち明けた際にも、動揺する彼らに「面倒くせぇ・・・」といわんばかりの表情。
友人からは警察に通報するよう促されるが、そうはせずに、斧を買い、射撃の練習をはじめ、犯人を何事もなかったかのように自らの手で追い詰めていく。
ミッシェルは、徹頭徹尾、泣くでもなく、悲痛にくれるでもなく、助けを求めることもしない。

これまでのレイプ描写といえば、被害者が、泣き、叫び、怒り、おし黙る、というような、記号化されたものが多かった。
被害の状況も対応も、実際はそれぞれ異なるところを、「被害者とはこういうもの」と定形化することは、そこからはみ出たものを排除することにもなりかねない。例えばそれは、「誘うような服装をしていたから」「嫌とは思えなかったから」というように、「落ち度」のない女性だけが被害者として認められるセカンドレイプやスラットバッシングにも繋がる。
そういう意味では、記号化された被害者像に一石を投じている映画になっている。
『エル ELLE』を賞賛をする意見の多くは、ここにあるようだ。

ミッシェルが、定形化された被害者像を覆しているのは、そこだけではない。
親友の夫と不倫をしたり、向かいに住む若い夫妻の夫であるパトリックを双眼鏡で盗み見てマスターベーションしたり、パトリックを自宅に招いて誘惑したり。性に自由な女性なのだが、だからミッシェルが悪い、というようにレイプが正当化されているわけではない。


それでも、「犯人よりも危険なのは彼女だった」(公式パンフレット)というキャッチがつけられているのを見ると、女のセクシャルや暴力性をサイコなモンスターに直結させる見方が映画業界にも依然として強いことを伺い知る。この主人公が男だったら?
逸脱するのも男の美学、といったありふれたVシネに一気になりそうな気がしないでもない。

一方で、ミッシェルを賞賛する意見には、「世間に求められる被害者像を拒み、経済的、社会的、性的にも自立し、尊厳を損なわない強靭な精神力の女性」というものが多い。
たしかに、ミッシェルはこれまでの被害者像から逸していて、映画で見かける望ましい女性像に対抗しているが、それをニュータイプのサバイバーとして賞賛するのも、ちょっと無邪気すぎるんじゃないだろうか。

性暴力被害を受けた当事者や支援者にも、『エル ELLE』に賛同する声はあるそうで、もちろん、ミッシェルのような闘いかたや自尊心の守り方もある。そのような人たちを後押しするのだとしたら、それは意義があることだ。
ただし、それが、必ずしも誰にも当てはまる「正攻法」ということでもない。
実際被害に遭った場合ミッシェルのような対応ではなく、被害を被害として抱えて、回復に長い時間を要する人も多い。しかし、それも、それだけの被害を被ったということだ。いずれにせよ、悪いのは加害者で、被害者は悪くない。

「まなざし系(性嫌悪)フェミが見たらキレそう」「自立した女性を描いたフェミ的映画」というように、『エル ELLE』が描く女性像を認めることこそラディカルなフェミニストといった意見も多いようだが、ヴァーホーヴェンは、単に能力が高くて男を手玉にとる強い女が好きだけで、決して「ミッシェルのようにあれ」とメッセージを発しているわけではない(それを描くためにレイプをネタとして扱うのはどうなのか、とも思うが)。

被害を被害として主張し、告発していくこと。それも、ミッシェルとはまた別の強さであり、回復への道筋でもある。

先日、韓国へ行く機会があり、日本軍「慰安婦」だった女性たちの被害の実態と、その後の長い当事者運動の資料を展示する「戦争と女性の人権博物館」に行った際のことを思い出す。
多くの女性は、被害から告発するまでに長い時間を要し、当初は被害を話すだけでも精一杯だったが、何年も何十年にも及ぶ過程を経て、「このような悲惨な被害が二度と起こらないように」という未来に繋ぐ運動になっていったという。

日本では、日本軍「慰安婦」の女性たちに対して、「とっくの昔のこといつまでも被害者ヅラしてるの?」と、まるで冷静さに欠いた私怨だとでもいうように一蹴する暴言が多い。あたかも、個人の中で折り合いをつけるべき私的な問題だと言わんばかりに。
被害を被害として受け止める土壌がない日本で、ミッシェルこそがサバイバーというような見方が先行することは、「いつまでも被害者ヅラしてるの?」とセットになりそうで、これが、被害を訴える人を封殺する言説に繋がらなければいいなと思う。

被害者はミッシェルのようにあってもいいし、ミッシェルのようになれなくてもいい。



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三木ミサ

三木ミサ(みき・みさ)

神奈川出身。元シノラー。学生時代にフェミニズムに目覚め、男子学生たちがオンナに抱く幻想を打ち砕くべく目の前で放屁をするなどの実践を試みるも、のちに、ジェンダーの問題ではなく、人としてのマナーの問題だったことに気づき反省。フェミニズムをゆるやかに模索する日々。出来れば、猫を産みたい

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