[2005/01/29]




わたしがアニー・スプリンクルという存在を知ったのは、たしか今から10年近く前。ニューヨークの、今はなきゲイ&レズビアン書店で「大人買い」したビデオの1本が、アニーが共同監督&出演している『The Sluts and Goddesses Video Workshop(アバズレと女神のビデオ・ワークショップ)』だった。

 当時のわたしは、レズビアン向けやフェミニスト向けのエロって? と興味しんしんで、なおかつ、ハードコアなものをトコトン見てみたいっていうヤル気にもあふれていたので、とにかく手当たり次第に見ていたのだけど。「潮吹き実演ワークショップ」を素朴なテクニックで実況中継するビデオとか、エロくもなんともないカラオケ・ビデオ的女性同士のイメージ・ビデオとか、スキンヘッドで全裸の女性たちがトイレで剃毛しあうところを手ブレたっぷりに撮影したマニア風味なものとかいろいろあるなかで、アニーの作品だけが「アート作品」していた。

タイトルから想像がつくように、さまざまな体型や人種の、見るからに女優さんではないタイプのオール女性のキャストが、「アバズレ」と「女神」にふんしつつ、いろんなセックスを実演してみせて、要所要所では巨乳のおねえさん(アニー)がインストラクター役で登場して、いろんなデータを教えてくれたりする、ジャンルとしては「実演お勉強もの」になるのだろうけれど、素朴なドキュメンタリーとはほど遠い。ヘアメイク、コスチューム、ライティング、カメラアングル、編集技術と、しっかり意図的にディレクションされているのが明白で、いい感じにキッチュなセンスのきいた、非常にアーティスティックな出来映え。そのくせラストでは、インストラクター役だったアニーが、数人の女性にヘルプしてもらいながら超長時間オーガズムの迫力実演! 「咆哮」と呼ぶしかないほどの大声を上げ続けるアニーは何分間もイきっぱなしの状態らしい……演技だとしてもスゴいし、マジってこと、ありえるの? でもきっと本物だよなあ……この人って何者? それがアニーの第一印象だった。

 1996年には日本語でアニーの本(『愛のヴァイブレーション』河出書房新社。現在在庫切れ) が出ていたと知ったのはごく最近のことで、わたしにとってアニー体験の第二弾は留学先のアメリカの大学院のジェンダー理論のゼミで見せられた『Linda/Les and Annie: The First Female-to-Male Transsexual Love Story(リンダ/レスとアニー:FtMトランスセクシャルの初の恋物語)』。

 「ほらあの、スペキュラムで子宮頸部を見せるパフォーマンスで有名なアニー・スプリンクルの作品よ」という教授の言葉に、ふんふんと頷く十名ほどの院生たち……そうか、アニーってアート系ジェンダー系クィア系の研究者の間では有名な人なんだ、へー。と、思いながら見たそのビデオは、もと女性のリンダが、レスになって、性別適合過程の仕上げとして手術で作ったペニスの筆おろしのお相手をアニーがつとめる、という内容。

   レス が受けた手術は、虎井まさ衛さんがアメリカで受けられたものと同じなので、彼の自叙伝でくわしい記述を読むことができるけれど、簡単にいうと、下腹の肉でちくわ状の肉筒を作って、クリトリスの上あたりにくっつける、というもの。見た目もまさしく「ちくわ状の肉筒」で、もちろん勃起しないので、あらかじめ大きめの肉筒を下げている人が、性交するときにはちくわの空洞に芯を入れて挿入できる堅さを出す。アニーのお相手のレスの場合、この芯が長すぎて、空洞から突き出ちゃったので、こりゃあぶない、って行為を中断してキッチンに行って二人で協力して芯を短くカットする、その瞬間の真剣さ、暖かみ、わびしさ、滑稽さが、私には最も印象に残ったビデオ作品だった。

 それと、膣はほうっておいてもすぐに萎縮するのであえて縫合手術はしない人も多い、というのは知識としては知っていたんだけど、映像で見るのはやっぱりすごいインパクト……。ベッドに横たわったややぽっちゃり体型のレスのペニス(肉筒)をフェラしながら、彼の膣に指を入れるアニー。女子の膣に指を入れるというのは、レズビアンのわたしにとっては日常的な行為なだけに! 

   そして3本目のアニーのビデオは、アメリカにおけるLPC的存在、Good Vibrations(グッド・ヴァイブレーションズ)のネット・ショップで買った『Annie Sprinkle's Herstory of Porn(アニー・スプリンクルのポルノ自叙伝)』。デビュー以来の出演作からの抜粋映像を見せながら、現在のアニー自身がふりかえって語っていく、というこのビデオを見て、ようやく、アニー・スプリンクルという人が、もともとはヘテロセクシャル男性向けのポルノ映画女優で、途中からフェミニストで、アーティストで、最近ではレズビアンで、セクソロジーの博士号を取得し、「セクソロジスト/アーティスト」だ、という全貌を知ったのでした。そして、常にセックスの仕事の最前線で文字通りカラダをはってきた実感から発せられる、アニーのフェミニズムと、徹底的な快楽肯定主義に感服し、「こいつ、何者?」状態から、一挙に、尊敬すべきアーティストへ。さらに、アニーが人生なかばでレズビアンになった、っていうことにもすごく興味があった。そのうち、会って話ができたらいいなー、と思っていたけれど、こんなに早く実現するとは!

 わたしの大学院時代からの親友で、大学教授にして研究者にしてクィアなパフォーミングアーティストでもあるティナの大学時代の友達、べスが現在のアニーのパートナーで、アニーたちが住むサンフランシスコにティナが引っ越して以来、ひんぱんに行き来している、ベス発案のアニーとのジョイント・イベントでティナも出演したりもして、とティナからきいたのは一昨年の後半のこと。そう、わたしの親友がいつの間にかアニーの仲良しさんになっていた! なんてラッキー。と、いうわけで、「今度、渡米するときは必ずサンフランシスコにも寄るから、わたしもアニーに紹介して!」とすぐにたのんだわたしは、某所でばったり会ったLPC主催の北原みのりさんに思わず「これこれこういうワケで、近々、アニーに会えると思うのよねー」と自慢。そうしたら、ぜひサイト用にインタビューしてきて!と、その場で話が決まったのでした。

 そして、昨年春、学会参加などいくつかの仕事にあわせて渡米したときに、無事、ティナにとりもってもらって、アニーにインタビューをさせてもらいました。じつは最初は、午後3時から2時間ほどの約束だったのだけど、正午ごろ電話がかかってきて「今日は忙しくてばたばたしているから…」と切り出されて、「すわ、キャンセル?」とあわてたのもほんの一瞬、「ばたばたしているから、昼間じゃなくて、夜のほうがありがたいの。どうせだから一緒にお食事しましょう。てきとうにディナーつくっているわ」と、およばれ企画に変更になったのでした。まさかアニー・スプリンクルの手料理をご馳走になるとは思ってもみなかったけれど、ガーリックのきいたシーザー・サラダづくりをトマトとアボガドを切るお手伝い&食事(カニと豆腐のオニオンとゴマのきいた味噌スープや緑黄色野菜がたっぷり入ったブラウンライスなど、栄養バランス満点で美味なメニューでした)と、初対面から2−3時間ですっかりなごんだ状態で(ワインはのみ過ぎないように注意しつつ)午後10時すぎから始めたのが以下のインタビューです。後半はベスも発言してくれました。




●セックス、あらゆることを試したかった

Q:あなたのプロフィールを拝見したら、とてもシャイな少女だったとあって、あなたのセックス・ラディカルぶりと、シャイな少女だったということのギャップに驚きました。まず、どのような経緯でセックスの仕事をするようになったのかお話いただけますか?

アニー:セックスに関する仕事をするようになって、31年。18才の時、売春とポルノ 映画の仕事、ほぼ同時に始めました。

わたしの両親は、父がすごくやさしくて、母がきつい人。それもあって、わたしは 女性がこわくて、女性には近づきたくない、いつも男性と過ごしたいという願望がありました。だから売春婦の仕事は楽しかった。いつも男性の相手をするわけだし、セックス自体にも興味があったので。文字通り、セックスについてはあらゆることを試してみたいと思っていました。

映画はもともと好きだったので、映画づくりにたずさわりたかった。そこで最初はスタッフとしてポルノ映画にかかわり、1973年からは演じる側になりました。

当時、ポルノ映画の製作にかかわっていた人たちは、みんなヒッピー。映画を流通させていたのはビジネスマンで、お金をもうけていたのは彼らだったけれど、製作現場はみんなヒッピーで、なぜだかたいしてお金は入ってこなくって、だ からわたしもポルノ映画の女優だけでは食べていけなくて、売春を続けていました。

●アンチ・ポルノ vs プロ・ポルノ

20代なかば、アーティストと同棲した時期がありました。わたしにアートの手ほどきをしてくれたのは彼。とくにフルクサスやダダのことを教えてくれたので、わたし はすっかりオノ・ヨーコの大ファンになって。そのころから、ポルノ映画でも、より実験的な作品やアート的な作品に出るようになったの。

1980年代にはいると、フェミニストによるアンチ・ポルノ論争が起こりました。わたしは、当時はすでにフェミニストになっていたので、プロ・セックス(セックス肯定)のフェミニスト・グループに参加して、キャンディダ・ロワヤールをはじめとするセックス業界で働くフェミニストの友人達と一緒に活動しました。

当時は「アンチ・ポルノ」と「プロ・ポルノ(ポルノ肯定)」の論争がすごく活発 だったのです。アンチ・ポルノのフェミニストたちは、「セックス業界で働く女性たちは虐待され、 搾取される気の毒な存在だ」と主張していましたが、実際にはわたしたちはハッピーに仕事をしていたんです。

なかには、リンダ・ラブレイスのように恋人との関係において虐待されている人もいましたが、彼女はあくまで例外で、わたしたちはみな楽しく仕事をしていた。それを知らせたかったのです。

*リンダ・ラブレイス:1972年「ディープ・スロート」に出演し、ポルノ界のヒロインになる。80年に夫の暴力や性的虐待などを紹介した自伝を発表、その後はポルノの追放運動に取り組んだ。

*アンチ・ポルノ:アンドレア・ドォーキン、キャサリン・マッキノン等が先頭に立ち、ポルノは女性の人権侵害と、公民権運動と同じ方法論でアンチ・ポルノ論を繰り広げた。

*プロ・ポルノ:キャンディダ・ロワイヤル等、ポルノ業界で働くフェミニストたちが中心に立つ。

●映画づくりとセックスと政治に興味があったから、ポルノ女優になるのは自然なれでした

溝口:フェミニストになったのはいつですか?

アニー:28、9歳くらい。NYで売春婦として働きながら、スクール・オ ブ・ビジュアル・アーツという美大に通っていて、そこで、フェミニズムの授業を受けたのがきっかけ。それで、「なるほどね」と思って、自分自身がフェミニストであるという自覚が生まれました。

溝口:え、そんな、あっさり? 

アニー:そう(笑)。わたしにとって、自分がやりたいこと、すべきことを主体的に追い求めて、経済的に自立するというのは当たり前のことだったけれど、 フェミニズムの授業をとおして、そんな自分の姿勢はフェミニストと言えるんだ、とわかったのよ。

考えてみれば、わたしの父と母もフェミニストだったの。二人がバイセクシャルだ ということをわたしが知ったのはごく最近で、彼らは性的なことには決してオープンでは なかったけれど、二人とも非常にリベラルな考えの持ち主だった。

溝口:と、いうことは、ご両親とうまくいかなくて家を出てセックス・ワークについた、というわけではないのですね?

アニー:違います。両親とはずっとうまくやっています。もっとも、最初のころはわたしの仕事をなかなか理解できなかったみたいですが。

Q:アメリカ合衆国では売春は合法だったのですか?

アニー:いいえ、違法です。今でも。

でも、わたしの両親は政治意識の非常に高い人たちで、当時、公民権運動や黒人差別反対運動にかかわっていました。そんな両親に育てられたわたしもまた、政治意識 が高かった。

そもそもわたしがポルノ映画業界に入ったきっかけは、『ディープ・スロート』の 検閲問題だったの。当時、『ディープ・スロート』が上映されていた映画館でポップコーンを売る仕事をしていたわたしは、自分が大好きな映画である『ディープ・スロート』を上映禁止にするという動きに憤慨し、法廷で証言をしました。つまり、わたし のポルノ映画業界への参入は、最初からきわめて政治的なきっかけからだったのです。

わたしは、映画づくりとセックスと政治に興味があったから、ポルノ女優になるのは自然な流れでした。



●バッド・ガールになりたかった

溝口:1970年代のアメリカ社会では、ポルノに対しての偏見はなかったのですか?

アニー:もちろん、ありました。わたしが気にしなかっただけ。わたしは自分の仕事に誇りを持っていたので、偏見や 批判は無視しました。だって、ポルノについて世の中の人が思っていることって、なかには当たっていることもあるけれど、的はずれなことも多いから。

溝口:どうしたら無視できるのですか?


アニー:ポルノの仕事をしている自分が好きだったし、毎日、充実していたから。もちろん、いやなことがあってうんざりする日もあったけれど、おおむね、楽しく過ごしていたわ。

とにかく、20代のころのわたしは、いかに多くの男を自分の映画でその気にさせら れるか、それだけを目標にしていたし、全身全霊で打ち込んでいたの。ポルノの観客の男達に愛されるために、彼らといい関係をつくるために、日夜努力していたから、偏見を気にするどころじゃなかった。

もちろん昔のことだから、今のわたしは、当時のいいことばかり覚えていていやなことは忘れて、美化している傾向はあるとは思うけれど……とにかくエロの追求、それしかなかったのは事実。

その後、アート活動をするようになってから、観客をその気にさせるということは、わたしにとってあまり重要ではなくなりました。30歳になったころかな。もちろん、相変わらず性的に直接的な表現をとっていたし、好きだったけれど、単に観客の下半身を直撃するというよりも、より知性や精神性やユーモアや、あるいは人間性や男性や女性について批評になっているような、そんな表現をこころがけるようになったし、より実験的にもなっていきました。

溝口:当時、ポルノ映画の観客の反応は、どのようにして知ることができたのですか?

アニー:1970年代はビデオのない時代だから、みんな映画館に来たの。そして、ポル ノ映画館ではプレミア上映会やオープニング・イベントをやるところが多かったので、観客と直接、接する機会はたくさんありました。それだけじゃなく、街角でもね。

たとえばNYの42nd ストリートを歩いていると、マッサージ・パーラーや売春婦の客引き(pimp)が客を物色しているわけだけど、彼らがわた しが歩いているのを見つけると、「アニー・スプリンクルだ! あんたの映画は見てるよ!」って声かけてきたりとか(笑)。ストリートのバッド・ガイた ちが、わたしに敬意を払ってくれた。

わたし自身は、高校まではいいコちゃんだったの。そして、バッド・ガールになり たかった。それが実現したっていう感じだった。

●ポルノ論争が残したもの

溝口:あなたのアーティストとしての初めてのプロジェクトはどんなものでしたか?

アニー:ちょっとしたパフォーマンス作品はたくさんやっていましたが、大規模なプロジェクトとしては、1990年から1995年まで展開していた『Post-Porn Modernist(ポスト・ポルノ・モダニスト)』が最初です。

ちょうど、さっき話したポルノ論争がまだ盛んな時期だったので、各地のギャラリーや劇場に招聘されて、高い評価を得ることができました。タイミングがよかったのね。そして、その後のわたしの活動におおきな影響を与えた作品になりました。

Q: 『Post-Porn Modernist(ポスト・ポルノ・モダニスト)』はどんな作品ですか?

アニー:わたしがアニー・スプリンクルになる以前の、シャイなエレン・スタインバーグのころから、ポルノ・スターやニュー・エイジのセックス巫女のペルソナなど、わたしの変遷とさまざまな顔を演じていく一種のひとり芝居なのだけど、なかでも話題になったのは観客に舞台にあがってもらってスペキュラムでわたしの子宮頸部を見せるパートと、「セックス・マジック・マスターベーション儀式」のパートね。

Q:子宮頸部を見せるパフォーマンスについては、アメリカの大学院にいた時に教授も言ってました。

アニー:でしょう?(笑)

ポルノ論争に話を戻すと、この論争では、両陣営ともに学び、成長したということだと思う。基本的にはアンチ・ポルノのフェミニストたちは今ではより寛容になっているし、ポルノ肯定派の私たちも、反対派の論理のなかからもっともな要素については学んだわ。もちろん、まだまだすべてが解決したわけじゃないけど。

溝口:あなた自身がポルノ論争から学んだことって何ですか?

アニー:わたしが出ていたころのポルノ映画のお約束に、レイプ、乱交パーティ、レズビアンのシーンがあること、というのがありました。

もっとも、レズビアン・シーンは「本当のセックスじゃないから」ということでギャラは上乗せされなかったけど。で、映画1本のなかでセックス・シーンは必ず6回。こういったお約束は決まった定型だったから、レイプ・シーンの意味なんて、わたしは考えもせずに演じていた。単にファンタジーでしょ? と思っていたから。

でも、アンチ・ポルノ派のフェミニストたちが、現実にレイプされる女性もいるというのにポルノでレイプを演じるのはいけない、とつきつけてきたことで、はじめてわたしはレイプ・シーンの意味を考えるようになったの。

そして、家父長制度がいかに女性を利用しているか、というようなことについても考えるようになった。というのも、ポルノ映画は男性のために作られていたものだから。だから、女性自身はあまりセックスは好きでないのに、男によってセックスをするようにしむけられる、というプロットがほとんどだった。ポルノに女性監督が登場してからは、かなり変わったけれど。

ポルノグラフィは、社会の記録だと思う。ポルノを見れば、その社会のその時代の男と女の関係やセックスの位置づけが見えてくる。ポルノグラフィは文化を反映している。だから、常に、毎年、変化している。面白いのは、ポルノグラフィはセックスについて議論する出発点になるということ。好きでも、嫌いでも。

あのね、今、流通しているポルノグラフィは、わたしにとっては全然、面白くない、退屈なものがほとんどなの。面白いのはほんの少ししかないわ(笑)。でも、その事実が対話のきっかけになるのも確かね。

●アカデミズムの世界へ

溝口:セクソロジーで博士号をとって、最近では大学での講演会などのお仕事が増えているそうですが、なぜ博士号をとることにしたのですか? そして、よりアカデミックな聴衆に向けてターゲットをシフトしたのですか?

アニー:わたしの場合、セックスという技をポルノ映画で実践し、アート作品としても扱い、さらに、タントラを学んだりとスピリチュアルな面でも修行をつみ、フェミニストとして政治問題としても取り組み、セックスについてまだ知らないアプローチといったらアカデミックなことだけ、という状態になっていました。

で、次のステップに進むためには新たなインスピレーションと知識が必要、という状態になっていて、じゃあ、これまでやったことのないアカデミックなことをしよう、と思ったのです。そこで、セクシュアリティ研究で博士号がとれるユニークな学校に行きました。

大学院は、面白かった。無事に学位をとりました。最近はアカデミックなリサーチよりも、アートと、パートナーとの関係性に興味があります。永続的なパートナーとのセックス、っていうことにね。だから、ベスがわたしの最近の研究のモルモット(笑)。

それと、今、ビデオ作品を作っていて、編集段階です。いろんな女性にオーガズムについて語ってもらったドキュメンタリーで、『Annie Sprinkle’s Orgasms: The Documentary(アニー・スプリンクルのオーガズム:ザ・ドキュメンタリー)』(この作品はその後、完成し、サンフランシスコのレズビアン&ゲイ映画祭をはじめ、各地で上映されている)というタイトルよ。

溝口:話は変わりますが、『Sluts and Goddesses』が、あなたのビデオ作品のなかで、わたしが初めて見たものなのですが、これはあなたの初のレズビアン作品なのですよね?

アニー:とくに「レズビアン作品」と銘打っているわけではないけれど、そうともいえますね。出演者は全員、女性で。バイセクシャルの女性が多かったと思います。わたし自身はちょうどレズビアンになりつつあるころだったので、『Annie Sprinkle's Herstory of Porn(アニー・スプリンクルのポルノ史)』という自叙伝的な映像作品のなかでは、こういうジョークを言っています。「この映画を作ったのは、レズ ビアンたちとの出会いのきっかけになればと思ったから」って。

溝口:あ、あれはジョークだったのですか?

アニー:まあ、本気半分、ね(笑)。当時はわたしは、レズビアンになりたて、だったから。

●レズビアンになる、ということ

溝口:あのー、すごくバカな質問かもしれないんですが……

ベス:この世にバカな質問なんてありえないわよ!

溝口:ありがとう、先生(笑)。えっと、アニー、あなたがどうして、い つ、レズビアンになったのかすごく興味があるんですけど。

っていうのは、わたし自身はおそらく生まれたときからレズビアンかな、って思うんですよ。もちろん、そう気がついて認められるようになるまではなんとなく漠然と自分はヘテロセクシャルだと思っていたわけですが。

で、きわめてセックスにアクティヴな人が、ありとあらゆることを試してみる一環で女同士のセックスもする、という例はいろいろ知っているのですが、でもあなたの場合は、「レズビアンになった」わけですよね? 

アニー:極端ないいかたをすれば、人って2種類に分かれると思うの。一生、職業も同じで住む場所も同じがいいという人と、さまざまな仕事を経験していろんな場所に住まないと気が済まない人がいるように。

セックスの面でも、どちらがいいということではなくて、決まった一人の相手と一生、同じ体位のセックスを繰り返すことで幸せな人もいれば、常に変化していく人もいる。変化の単位も、1年だったり10年だったり、人それぞれ。

でも、とにかく常に変化のプロセスにいる人というのが確かにいて、わたしはそっちなのね。変化の「メタモルフォーシス」と「セクシャル」をあわせて、「メタモルフォセクシャル」とわたしは呼んでいるのだけど。

わたしの場合、最初は完全にヘテロセクシャルだった。映画のなかでも、プライベートでも、女性とのセックスも経験はしていたけど、全然ぴんとこなかった。「くわえるモノがないじゃない!」って思ってたわ(笑)。

当時の相手の女性たちはレズビアンじゃなかったから、それもあったと思うけど。とにかく、わたしはずっと男性とのセックスが大好きだった……のだけど、ちょうど3,500本とやったところで、ある日、「もう、いらない」って思ったのよ。

溝口:3,500本って、実際に数えたのですか?

アニー:もちろん! 週に平均して何本か、っていう数字に、年数をかけてちゃんと出した数字よ。

とにかく3,500本こなした時点で、もう男はいらない、変わりたい、と思ったわけなの。それ以来、男とはやってないわ。一番最後の男性は、FtMトランスセクシャルのレスというステキな人だったわ。

溝口:あ、ビデオ作品のですね。

アニー:そう。それで、男はもういい、っていう状態になってから、ある日突然、女性に恋をしたの。リンダ・モンタノというアーティストに。

リンダはわたしが最も尊敬するアーティストなんだけど、一緒に仕事をすることがあって、とにかく突然、彼女のことが大好きになって、同時に、性的にもひかれている自分に気づいたのよ。自分でもどうしようもないくらいに強烈な欲求だった。で、残念なことにリンダとつきあうことは不可能だったので、他の女性とセックスをしたの。とってもキュートなレズビアンと。それが、わたしがレズビアンとした初めてのセックスだったんだけど、素晴らしかった! 

それまでも女性とセックスしたことはあったけど全然、よくなかったのは、やり方が間違ってたんだってことがわかったわ。本当のレズビアン・セックスはなんてイイんでしょう、って開眼したってわけ。そうこうしているうちに、わたしはもうすっかり女性だけを性的な対象として見ている自分になっていることに気づいたの。

●ベスに恋して

溝口:えっと、男が嫌いになったから女に走った、っていうわけではないんですか?

アニー:それとこれとは別。「男はもういいや」って思ったのは、売春の仕事でも映画の仕事でも、あまりにもたくさんの男を相手にしすぎて、「もう、ちんぽは見たくない!」状態になったのよ。でも、だからすぐに女性に行ったわけじゃなくて、リンダに恋したことがきっかけだったの。

溝口:今でも「男嫌い」ですか?

アニー:完全に男がイヤになっていたのは3年間くらいだったかな。その期間はそれこそ、父親以外の男とはほとんど接点をもたないくらいだったけど、男嫌いの彼女とつきあっていたからそれでも問題なかったし。最近は、そうでもなくて、男性でもキュートだな、と思うこともあるわ。たとえばね、わたしとベスは子供を作ろうと思っているんだけど、ベスに精子を提供してくれている男性のこと、すごく魅力的だと思うし大好きよ。

ベス:そうそう、アニーが気に入ったから彼に決めたのよね。

溝口:子供をつくって、2人の子供として育てていこう、っていうことですか?

アニー:そう。自分でもびっくりしているんだけど、ベスとの関係は永遠に続けばいいなあと思っているの。

今、2年目だけど、こんなに長く続いたのは初めてだし、永遠に続けばいいなんて思うのも生まれて初めてで自分でも驚いているわ。以前も、特定の相手と真剣なおつきあいをしたことはあるんだけど、私はいつも6ヶ月単位でしか約束はしなかった。自分の気持ちが変わることがわかっていたから。

溝口:ベスのどこがこれまでの人たちと、そんなに違うのですか?(笑)

アニー:うーん、とにかくうまくいってるの(笑)。

ベス:わたしも、こんなに相性のいい人はアニーが初めて。過去のガールフレンドたちとは、どうしても、お互いを非難したり、相手を支配しようとするような問題がもちあがっていたんだけど、アニーとだと全然、そんなことなくて。

アニー:それと、ベスはわたしのワイルドな過去を問題なく、完全に受け入れてくれているの。これはすごく重要よ。わたしの過去の経験を批判的に考えるでもなく、逆にひけめを感じるでもなく。ごく自然に受け入れてくれている。こういう人はめったいないわ。それに……セックスもすごく上手いの!(笑)

溝口:なるほど〜! じゃあ、二人のなれそめを教えてください。

アニー:知り合ったのは12年前。ベスは当時、美術系の大学院修士課程の学生で、修士プロジェクト作品のモデルをたのまれたのがきっかけ。でも、ずっと知り合いではあったけど、恋人になったのは2年前なのよ。

溝口:つきあうことになったきっかけは?

ベス:アニーからデートのお誘いの電話がきたのよ。その当時、わたしは恋人とひどい別れ方をしたばかりで、もう女はコリゴリ! ヘテロセクシャルになってやる〜って思って、家の修理に来た業者の男性と会ったその日にフォークリフトの上でセックスしたりなんかして、それがけっこう楽しかったものだから「よし、大丈夫。もうこれでわたしはヘテロセクシャルになれる」「女とはもう一生、つきあうもんか」なんて思ってたんだけど……

溝口:でもアニーとのデートには出かけていった、んだ?

ベス:だってそりゃ、他ならぬアニーからのお誘いだもの(笑)。で、まあ、その最初のデート以来、2年間ほとんどずっと一緒にいるって感じ。

アニー:1回目のデートはわたしのアパートに来てもらったの。で、タロット占いをしてあげて、ベスの人生についてすべての情報をきいて……

ベス:そんなに自分をさらけ出すなんて思ってなかったから、もう耐えられない! か思って、とりあえずアニーをだまらせようとしてキスしたら……

アニー:3日後もまだ、ベスはわたしの指の上に座っていた、ってことなの(笑)。

ベス:アニーのルームメイトが、「オーガズムのときの声をもっと小さくして! 楽器の練習ができないから」っていうメモを差し込んできたり……(笑)。

アニー:2度目のデートも、1日だけの予定だったのに3日になっちゃって、3度目のデートは5日がかりになっちゃって(笑)。結局、半年後に一緒に住むことにしたの。友達はみんな反対したけど、それ以後来もラブラブよ(笑)。

ベス:同居したときに、ドメスティック・パートナーになったのよ。わたしはカリフォルニア州立大学サンタ・クルーズ校で彫刻を教えているんだけど、カリフォルニア州立大学はドメスティック・パートナーの健康保険をカバーしてくれるから。図書館なんかの学内の施設も使えるしね。

溝口:日本には国民健康保険制度があるけど、アメリカの保険は全部、民間だから、それって大きいですよね。

●若いモンのセックスは・・・

溝口:日本では近年、セックス体験の若年化が進んでいるといわれています。これは、女性は結婚するまで貞操を守らなくてはいけないが男性は性体験豊富でもいい、っていう昔のダブル・スタンダードと比べると、一見、若い女性が好きなように自由にセックスしていい、いいことのようにも思えますが、どうも実態は、「早くセックス体験をしないといけない」っていうプレッシャーがひどくて、全然自由じゃない、逆に不自由な状態の女の子も多いみたいなんです。「もう16歳なのに初体験もまだなんて、友達にバカにされる、どうしよう、どうしても17になる前にしなくちゃ」ってマジメに相談に来たコがいたりとか、ってきくと。

アニー:わたしが16歳のころは、セックスが怖くてしかたなかった。セックスしなくちゃいけない、にせよ、してはいけない、にせよ、どちらの方向にしても、セックスに過剰な意味をもたせるのは、残念ながらアメリカ文化でも同じことだと思うわ。それに、フェミニズムの功績は大きかったとはいっても、今でも、みじめな初体験をする女性のほうが、楽しい初体験をする女性よりもずっと多いという事実もある。

ベス:それでも、今の19、ハタチくらいの若い女の子たちは、フェミニズムなんてもう古い、必要ない、って言ってはばからないコが増えているのよね。それと、これはレズビアンやゲイについてだけど、今の若い子たちが、いまだに、わたしが若いころと同じように、孤立して悩みをかかえているコが多いというのも、驚くけれど、事実。若者にとってセクシャリティの問題は常に重大な問題で、大人になれば笑い飛ばせるようなことでも命にかかわることもあるわけだから、わたし達大人が教育していく必要があると思います。

アニー:アメリカも日本も、残念ながらセックスに対して自然体で接する文化ではない、ということよね。

ベス:キリスト教右派は相変わらずアンチ・ポルノだし。

アニー:そうね。まだまだ、やるべき仕事はたくさんある。

Q:今後のご予定を教えていただけますか? オーガズムについてのビデオ作品のほかに、とりかかっていらっしゃるプロジェクトがあれば教えてください。

アニー:今年後半から来年にかけては、本を執筆します。タイトルは今のところ、『Annie Sprinkle’s Sex Makeover(アニー・スプリンクルのセックス・メイクオーバー)』にしようと思っています。わたしにとってははじめての、大手出版社からの本になります。

Q:それは楽しみです。ついにメジャー進出ですね。

インタビュー:溝口彰子



 「地上が快楽で満たされますように。そして、それがわたしからはじまりますように(Let there be pleasure on earth and let it begin with me.)」がアニーのモットー。今年予定されているメジャー進出で、どう展開していくのか。そして、すでに50代にさしかかっているアニーが、中年、老年期のセックスをどのように作品にしていくのか。興味はつきません。日本で、とうことになると、1996年の本もすでに入手不可能で、アニーの作品はまったく流通していなくて、残念! これからでも、アニーのビデオ作品や今度の書籍が、日本でもどこかから出ればいいのになー。(溝口)


アニー・スプリンクル。私の憧れの女優。フェミとエロの重なる地点を探して自分の仕事を探していた時、セックスをポジティブに楽しむことをフェミの視線で堂々とやりとげたアニーには本当に強く深く影響を受けました。いつか実物と話をしたいなぁ、と野望を抱いていたところ、「アニー・スプリンクルに会うんだ」と、ものすごーいことをサラリとおっしゃった溝口さんに食らいついたのは言うまでもありません。

溝口さんは「あれほど、チンコとセックスしていた人がレズビアンになるっていうのが面白いじゃん!」ハハハ! と笑いながら、「その点を聞きたいよね〜!」とおっしゃっていました。確かに。彼女の作品の多くは、というかほとんどが「ヘテロセックス」にとてもフレンドリーな作品。チンコをとてもおいしく食べるアニーの姿が、私にはとても印象に残っています。

「レズビアンになるって、どんなことでしょうね」と、私は私自身の最近のことも重ねてアニーに話しを聞きたいと思いました。女がセックスに関わる仕事をすることが、今よりももっともっと難しかった70年代アメリカ。その時代からずっとセックスに関わる仕事をしてきたアニーの著作やインタビューは少なくありません。それでも「レズビアン後」の「彼女のセクシュアリティ」を問うようなインタビューは目にしたことがありませんでした。だからこそ! 知りたい! 聞きたい!!

溝口さんのインタビューは、アニーの家でとてもリラックスして行われたことが伝わります。アニーのとてもオープンで、女への愛に満ちた言葉をLPCのHPで掲載できるなんて、夢のよう! いつかアニーと本当に会える日がくればいいな。溝口さん、お疲れさまでした。
北原みのり


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