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奨学金の最初の振り込みを3月下旬にできないものか?

深井恵2019.03.12

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恩師がこの春退官されるということで、先日、最終講義を聴きに、母校の大学へ行った。大学時代に「国語科教育法」の講義を受けた、尊敬する恩師だ。

「教科書『を』教えるか、教科書『で』教えるか」のお話を聴いたのも、その先生の講義だった。「教師自身が学び続けなければならない」と講義の中で話されたこともあり、大学生の頃から肝に銘じて今日に至る。

その先生は、ありとあらゆる書類を厳密に整理・保管していらして、私たちの学年の卒業文集も保管されていた。大学四年生の頃、どんなことを文集に書いたか、すっかり忘れていた。気恥ずかしい気持ちで、同級生と一緒にその文集を読み返した。

「苦学楽学」という題で文章を書いていた。「大学受験に失敗して、就職する。そう望まれていた」という書き出しだった。そう、私は大学に行かずに就職することを望まれていた。「だが、運悪く(?)大学に合格してしまった。苦学覚悟の進学だった」と文章は続いていた。大学の頃の記憶が、一気に蘇った。

遡れば私が小学校一年生の時、父からの暴力が原因で、母が統合失調症を発症した。専業主婦だった母は、収入を父に頼るしかなく、離婚したくてもできない状態だった。父は私と弟のいる目の前で、母に暴力をふるった。まだ、DVなどという言葉がなかった頃の話だ。

その後、父との同居を回避するために、父が単身赴任できるよう、母は会社の上司に頼んでいた。父は、茨城県東海村の原子力発電所で働くために単身赴任した。盆と正月しか父が帰って来ない状態が何年も続いた。

私が高校二年の冬、修学旅行から帰った日に、父から「会社をクビになった」と電話がかかってきた。中卒だった父は、いま思えば、原子力発電所で危険な作業を強いられ、浴びられる限度の放射線を浴びて、解雇されたのではないかと推察する(父は16年前に、63歳の若さで死んだ。死因は肝硬変だった)。

父が解雇されて間もなく、父との同居が再開された。同居再開当初は、「こんなときこそ、夫婦で支えあわなければ」などと言っていた母だったが、次の仕事をなかなか探そうとしない父に、徐々に精神状態が不安定になっていった。

私が高校三年になる前に、離婚話が浮上、別居期間を経て、高校三年の五月に両親は離婚した。「二人の子どもが成人するまでは養育費を払う」ことが、離婚の際の条件に入っていたが、養育費は一、二度払われただけで、すぐに途切れた。潤沢な貯蓄があるわけもなく、母がフルタイムで働ける状態でもなかった。

当時の高校の学年主任が、すぐに給付型の奨学金の手続きをしてくださり、大学の予約奨学金の話も聞いた。そんな制度があるということを全く知らない高校生(保護者)にとっては、本当に有り難い話だった。

日本育英会(当時)の予約奨学生の手続きを進め、1種と2種の両方借りて、市町村の奨学金も借りれば、志望する大学に進学できるものと思い、両親の別居・離婚で勉強に集中できないながらも、必死に受験勉強をしていた。将来は高校の教員になりたいという夢を描いて、県外の国立大学教育学部をめざしていた。

そんな私に、母が冷や水を浴びせた。「県外の大学は無理。地元の国立大学しか受けさせられない。落ちたら就職」。高校三年の12月の出来事だ。共通一次試験(当時)に向けてラストスパートする時期に、あまりにダメージの大きい言葉。いままでの受験勉強の苦労はなんだったのか。大泣きしたのを覚えている。

共通一次試験はイマイチの得点だったものの、地元の国立大学の教育学部に合格した。私の合格発表と、弟の高校の合格発表は、確か同じ日だった。私が大学入試で落ちることを望んでいた母は、私の合格を喜んではくれなかった。

大学生活が始まったが、あてにしていた奨学金は、すぐには振り込まれなかった。当時は四月分と五月分がまとめて六月にならないと振り込まれなかったように記憶している(いまでは、四月の半ばに四月分が振り込まれるようだが)。

生活は、三月末から四月当初に一番お金がかかる。特に、進学や就職、引っ越しが伴えばなおさらのことだ。大学生活も、入学金、前期授業料、教科書代、通学交通費(定期券)など、次の月にはない様々な初期費用が発生する。

にもかかわらず、最初の奨学金は、入学後ニ、三カ月経たないと振り込まれなかった。私の大学生活が始まると同時に、生活保護家庭になっていた。大学生活が始まって間もない、ある日の明け方、まだ眠っていた私だったが、いきなり頭に激痛が走り、「痛っ」と叫んで目が覚めた。涙が出るほどの痛さだった。

なかなか起きてこない私の頭を、母が叩いたのだろうと思って、「そんなに強く叩かなくても起きるのに……」と口にして、痛みに半泣きの状態で起きた。

実はその時、お金を苦にした母が、私を殺そうと、金槌で私の頭を思いっきり叩いたことによる痛みだったと、後で知った。石頭でよかった。コブができた程度ですんだ。あの時、頭を叩き割られていたら、今日の私はない。

その後、奨学金が振り込まれるようになり、貧しいながらも生活は安定した。私の奨学金は、高校生だった弟の、修学旅行費や模擬試験代、大学受験の諸費用などにも使われていった。

この経験(頭を叩かれた経験ではなく、奨学金等を受けた経験)は、いま、クラス担任をするうえで、非常に役に立っている。経済格差が膨らみ、進学する生徒の大半は奨学金を受けて進学していく。そのときに、注意しなければならない点や社会資源の利用について、現実味を帯びて語ることができる。

奨学金がなければ、大学に行くことはできなかった。本当にありがたかったと、いまでも思っている。だが、進学の出費が一番かさむ三月末の段階で、四月分を振り込むことはできないのか。特に、予約奨学金を申し込んでいる人には、新生活始める準備期間のうちに渡してほしいものだ。三月末がダメなら、せめて四月一日の振り込みにできないものか。

そうすれば、一番金銭的に苦しい時期を、スムーズに乗り切ることができる人が増えるのではないか。私の母も、私の頭を殴らずにすんだはずだ。

二十数年ぶりに大学時代の文集を読んで、すっかり気分が大学生になった。恩師の最後の講義では、国語科教育の歴史にも言及され、アクティブラーニングや「主体的・対話的に学ぶ」などの、文部科学省から出された「国策」をどう進めるかに取り組まれた経緯も話された。

最終講義が終わった後、個人的に話をしに恩師のところへ行った。様々な教えに対する感謝とともに、漢字の問題集に軍隊用語が多用されていることや、産めよ殖やせよ教材、家父長制復活教材が増えていることなどについて、これも「国策」かと。

先生は、その現状に驚かれていた。「漢字の問題集は、例文を変えて出題すればいいじゃない」とおっしゃった。その反応に、教科書や副教材、指導書の「右傾化」は、大学教授も気づいていないのだと感じた。研究対象としては「すき間」の分野、「盲点」というべきか。誰も詳細に研究していないのだ。

漢字の問題集も、教科書・指導書も、大学教授の研究対象にはなり得ない。「平和の視点でチェックしよう」という研究者もいないのだろう。いや、国立大学であれば、そんな研究ができるはずはない。軍隊用語に慣れ親しませ、少子化対策で繁殖活動や家父長制を意識させるのが「国策」ならば、それを進める方向に働きこそすれ、警戒して批判的に見ていこうとはなり得ない。

やはり、労働組合に加入している現場の教員が、教材研究の一環として研究するしかないのである。

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深井恵(ふかい・めぐみ)

九州某県の高校日本語教員。
日教組の「教え子を再び戦場に送らない」に賛同して組合加入。北原みのりさんとは、10年以上前(ジェンダー・フリー・バッシングがひどかった頃)に組合女性部の学習会講師をお願いして以来の仲。

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