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女たちの解放と欲望を求めてーーセックスグッズから韓流まで 日本のフェミニスト、北原みのりインタビュー(上)

趙慶喜2021.12.28

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この記事は2021年11月12日に韓国フェミニストメディア「ilda」(イルダ)に掲載された趙慶喜さんによる北原みのりのインタビューを転載しています。
趙慶喜さんの研究論文を読み、根底に通じる強い思いを実感し、完全に信頼して多くを語り、そしてそのまま趙慶喜さんの編集に任せました。ですから今回日本語で隅々まで読んで、本当に趙慶喜さんにインタビューしていただいたことを感謝しました。

韓国フェミの間ではtwitterなどでもけっこう話題になったと聞きました。ラブピースクラブ25年目の、大きな贈り物をいただいたような気持です。趙慶喜さん、イルダのみなさん、ありがとうございました。日韓のフェミ、もっとつながっていきたい思いを深めました。(北原みのり)

イルダildaのサイトで韓国でお読みになる方はコチラからご覧下さい。→ 여자들의 해방과 욕망을 찾아서: 섹스굿즈에서 한류까지

フェミニストである北原みのりさんは韓国との縁も交流も深い。日本軍「慰安婦」運動をはじめ「韓国のフェミニズムから多くの影響を受けた」と話す彼女は、ここ数年のあいだ東京医科大学の不正入試への抗議デモや日本で#MeToo運動の先駆けとなったジャーナリスト伊藤詩織さんの支援集会、そして全国規模でおこなっている「フラワーデモ」などを活発にリードしてきた。

みのりさんと同時期に日本で学生時代を送り、現在は聖公会大学に在職中の在日朝鮮人三世である趙慶喜(チョ・キョンヒ)さんが、「ファンとして」みのりさんにインタビューをおこなった。趙さんは韓国で#MeToo運動が盛んだったころ、学生たちから「日本ではなぜMeTooが起こらないのか」と何度も質問されたという。外側からは静かに見える日本社会で活発に運動する北原みのりさんに、昨今の日本のフェミニズム運動の全体的な動向を尋ねた。(イルダ編集部)

 

■シングルマザーたちを見て育った子ども

北原みのりさんは、1990年代から日本のフェミニズムやサブカルチャーの領域で独自の活動を展開していた。彼女が女性のためのセックスグッズショップ「ラブピースクラブ」を設立したのは1996年。それから25年間、ジェンダーとセクシュアリティ、韓流、日本軍「慰安婦」問題、#MeToo運動など多岐にわたる活動の一方、コラムの執筆や書籍の出版活動も平行して行ってきた。「anan」のセックス特集を追った『アンアンのセックスできれいになれた?』(2011)、女性連続殺人犯・木嶋佳苗の裁判傍聴記『毒婦。木嶋佳苗100日裁判傍聴記』(2012)、韓流と日本女性たちの欲望を記録した『さよなら、韓流』(2013)など、扱っているテーマも幅広い。

「慰安婦」問題を日本社会に知らせる活動団体「希望のたね」基金理事も歴任し、2021年には経営していた会社に出版部門「アジュマブックス」を設立、韓国のフェミニズム書籍を日本に紹介し始めた。会社経営、作家、活動家として自身の力量を多方面に発揮してきたみのりさんのお話をうかがいたく、SNSでいきなり連絡してみたところ、快くインタビューに応じてくださった。



zoomを通じて会った北原みのりさん(左)と趙慶喜さん(右)

1970年生まれのみのりさんは、戦後世代のご両親のもと「わりとリベラルな」雰囲気の中で育ったが、家族の中では「母方の祖母の影響が大きかった」と語る。

「あまり男の大人が周りにいない世界でした。祖母は結婚しないで母を産んで、旅館の経営をやっていたんです。1920年代生まれの女性たちは、同世代の男たちが戦争で死んでるので、戦後一人で暮らさなければならない人たちが多かったですね。祖母の旅館で働いていたおばさんたちもみんなシングルでした。祖母が旅館の女将として威厳があって、おばさんたちが堂々と仕事をしているのが当たり前の風景だったので、女が弱いとか、男を立てるとか、そういう文化のないところで成長できたのは幸運なことだったかと思います」

周囲にたくさんの働く女性たちがいる環境は当時としては珍しいものであった。「母親は専業主婦だったのですが、途中から自分の家で塾の先生を始めましたね。今から思うと母なりに色々ともがいていたのかもしれないです」。

子どものころから女性の性と経済的自立への関心が高かった北原みのりさん。インタビューは、みのりさんとの会話を可能な限りそのまま記した。

 

キャリアウーマンになるんだ!

みのり:実は「北原」は母の姓なんです。父の姓は「ワタナベ」で、クラスに3人いたので嫌だなと思って(笑)。「北原」のほうがかっこいいと思っていて、「どうしてお父さんの名字なの?」って聞いたら、父親は「お母さんがお父さんの名字を使いたいって言ったんだよ」なんて言っていました。

キョンヒ:ええ、確かに「北原」のほうがいいですね(笑)。男親の姓を名乗ることへの反抗心が、もう当時からあったんですね。思春期の中高生のころはどんな子どもでしたか? 勉強とかできました?

みのり:わりとまっすぐな子だったと思います。すくすく育った感じ。中学生のときにちょうど男女雇用機会均等法(1985)が制定されて、それまで女たちがまともに働けなかったことに驚いた記憶はありますね。当時、一般的には「働く女性=会社員」というイメージはなかったのですが、均等法ができたので、将来は女性たちも会社に通って、海外にも出て、ニューヨークのウォール街に進出するんだと、そんなイメージをふくらませていました(笑)。だから「キャリアウーマンになるんだ!」って思ってましたね。

キョンヒ:男女雇用機会均等法が中学生にも関心事だったんですね。

みのり:はい。初めて自分がフェミニストだなって思ったのは小学校3年生のときで、市川房枝さんがお亡くなりになって、メディアでたくさん取り上げられていたときに、「いったいどんな人なんだろう」と気になって父に聞いたりしました。女性たちに選挙権がなかったこともそのとき知ってショックを受けました。思いが高まり「市川房枝新聞」というものを作って、こんなかっこいいおばあさんがいたんだよ、と友達に配ったりしていました。

キョンヒ:子どものころから意識が高かったのですね。お父さんの影響で自然と時事問題に接していたようですね。当時はやっぱり革新系の進歩的な教育がまだ生きていたんでしょうね。

みのり:そうかもしれません。日教組の先生たちは教科書に載っていない内容を教えてくれました。日の丸を強要する雰囲気みたいなものは、当時はなかったですから。

キョンヒ:確かにそうですね。1990年代に入り、日本社会がずいぶん保守化したころに20代を過ごされましたね。保守化し続けたまま30年過ぎてしまいましたが……。

みのり:ええ。本当に平成という時代は、女性たちには特に最悪な時代だったと思っています。今でも「私たちよく生き残ったよね」とか言ってます。

 

■女たちの経済的自立と性的欲望というテーマ

キョンヒ:大学では何を専攻されたのですか?

みのり:キャリアウーマンになりたかったので、国際金融論を専攻しました。

キョンヒ:思ってもみなかった答えでした(笑)。

みのり:ちょっとおかしかったですね(笑)。4年生のときには、自分が国際金融にまったく興味がないなってようやく気がついて、当時すでにフェミニズムの集会に行ったりして、企業で働くという自分の未来が想像できず、なんとか就職までの時間を稼がなくてはと大学院に進みました。

それが1993年だったんです。ちょうど「性教育改革元年」という言葉が出た年で、エイズウイルス(HIV)問題が大きく取り上げられ、性教育をきちんとしなければという議論が文部科学省でも高まっていました。性教育を学べばジェンダーによる悩みも少しは解消されるかと思い、修士課程では教育学を専攻することにしました。

キョンヒ:フェミニズムや性の問題に活動の方向性を定めたのがその頃だったんですね。

みのり:はい、そうです。一番の悩みはやはり経済的にどうやって自立していくかでした。大学時代にいくつかアルバイトをしましたが、50代以上の女性たちが働いているところは一つもありませんでした。雑誌が好きだったのですが、40才になったら何の雑誌を読めばいいのかとか。年をとるということが何を意味するのか、考えるだけで途方にくれました。会社に入らずに自分で仕事をする方法は何かとずいぶん考えました。研究職とかライターとか組織に属さず仕事をするという方向は、そのころに定まったんだと思います。

さらに当時日本ではおぞましい事件が多かったんです。有名なものでは東京・足立区綾瀬で起こったコンクリート殺人事件(注:1989年、 4人の少年が女子高校生を拉致、40日間監禁しレイプ、暴行のうえ殺害後、死体をコンクリートに詰めて遺棄)があります。加害者の男たちは私と同い年で、わたしの家が事件が起きた駅とも遠くはなかったのでショックでした。被害者である女子高校生について、メディアでは、不良少女だったと攻撃対象になっていたことも覚えています。

もう一つは、宮崎勤事件(注: 1989年、20代男性が4名の女児を誘拐、殺害した事件)です。これも報道内容がとても問題点だらけに思えました。被害者の5歳の女の子が裸で殺害された状況を、具体的に描写していました。なぜ、被害者が新たな報道による被害を受け続けなければならないのかモヤモヤしていたころに、フェミニズムの集会に参加することになって。それが結構大きな集会だったのですが、とにかく怒っているおばさんたちとたくさん出会いました。当時おばさんと思っていた女性たちは、今の私より若かったかもしれませんが……。そういった集会ではお姉さん方がみなさん憤っていたのを見て、多少気持ちが楽になりました。

だから「こっちの道」が答えだと感じていたんですが、集会に行くと他に若い女性がいないのですごいチヤホヤされるんだけど、そこで言われることが、そんな短いスカート履くなとか、化粧が派手だとか、そういう風にいじられる時代でもあったと思うんですよね。でも性的アピールをすることが必ずしも男に媚びることにはならないはずなのに……とモヤモヤしていました。自分の欲望を肯定しながら、性暴力を拒否するという当然のことが、当時はとても難しいことでした。

大学院の雰囲気は悪くはなかったのですが、あまり一つ一つを深められないもどかしさはありました。あと、哲学を学ぶことが苦痛で。古典哲学はみんなミソジニーでしたから。学問をやるうえで基本的知識をすべて男から学ばなくてはならないことも耐え難いことでした。私のなかでは、男が書いた小説ももう大学時代には読めなくなっていたので。

キョンヒ:90年代の日本は「何をやってもいい」という価値相対主義的な雰囲気がありましたよね。性の問題がサブカルチャーになる雰囲気の中で、男性中心的な文化に巻き込まれず、性的欲望を語ることは本当に難しかったと思います。みのりさんは当時若きフェミニストとして先頭に立っていらっしゃったのですが、そのときは仲間はいらっしゃったのでしょうか?

みのり:ええ、当時は日本が一番豊かだった時代の気楽さとか軽薄さがありました……。私は一緒に活動する仲間を探すことにかなり積極的でした。大学で新聞部を作って、田嶋陽子さんとか樋口恵子さんとか、フェミニストに取材をしたりするなかで、学校外でフェミニストの友人たちと付き合ったりしました。

けれども、大学時代一番親しかった友人が、エリート主義的なところが少しあって、疎遠になってしまったりもしたのですが、本当に大好きだった友達ですが、就職するなり自ら命を絶ってしまったのです。そのことが一つのきっかけとして大きく影響しました。国際金融論セミナーで会ったのですが、他の友人たちはみんな銀行とかコンサルとか大企業に就職していたのすが、誰もお葬式には来てなくて。それはあんまりじゃないかと思いました。22歳で亡くなった友だちの葬式にいか行かないなんて……。いっしょに参列したゼミ教授と葬式の後に交わした言葉が今でも忘れることができません。

「やっぱり金融論とかやるやつは冷たいな」って言ったんですね。

その教授は、「男たちの経済理論に巻き込まれてはいけない。女の経済を作らないと本当の女の自立は難しいんじゃないか」って。何だそれって、すごく目から鱗だった。

一人で生きていくとか、組織つくるとか、女の経済をどう回せるのかとか、考えていきたいなというベースがあって。あと私はコンピュータが好きで、ちょうどインターネットが普及したころでもあったので、ホームページを作成する会社を設立したんです。だから最初はフェミとは関係ないところで仕事を始めてるんですよ。


北原みのりさん。ラブピースクラブで撮影。

 

■LOVE PIECE CLUB―
女性たちの求めるモノを作ろう

キョンヒ:ウィンドウズ95が出てすぐ会社経営を始めたのですか? すごく早いですね。

みのり:そうなんです。1995年。草創期のベンチャー企業です(笑)。経済的にちゃんと自立したいという気持ちはとても大きくありました。お金への執着が強かったわけではないのですが、それでもお金はなきゃダメでしょというのはベースにあったんですよね。当時、有限会社設立にも300万円が必要で、叔母に借りました。当時の20代って蓄えの発想がないじゃないですか。私は1993年卒業で、本格的な就職難や不況が始まる前のギリギリまだ大丈夫な時でもあったので、将来的な不安は少なく楽観的にスタートすることができました。

なぜ同じ時期にラブピースクラブを始めたのかと言いますと、当時、インターネットのHPを持っている会社ってエロ、AVサイトが大半でした。私もそういう会社のHP制作を請けおっていました。あとは、やっぱり発信したかったというか、出版社とかなくても自分で世界に向けてものを表現できるのがインターネットだから、何かつくりたいよねと。海外アーティストたちのホームページもをたくさんチェックしていました。

この二つがつながり、フェミニストが運営するセックスグッズショップにたどり着きました。
当時インターネットの世界はやっぱりアメリカだったので、主にアメリカのショップを見て学びましたね。

キョンヒ:男中心のエロサイトを作ることへの拒否感が、一つの刺激剤になったんでしょうか?

みのり:もちろんそうですが、当時はそんなに深く考えてはいませんでした。男たちのエロはそれはそれであって、女たちのものがないから作ろうという程度で、やはり私の認識にも時代の限界がありました。今はAVそのものの構造的な問題を感じていて肯定できないのですが、当時は女性たちが楽しめる表現を作ることがフェミニズムの仕事だと考えていました。

女性のエロを表現しようというイベントを開いたり、さまざまなアーティストたちと作業しながら、そういった活動をホームページで発表したり……。アメリカにセックスグッズショップがあるとか、マスターベーション講習をする女性がいるとわかれば、すぐに手紙を書いて会いに行き行動力を発揮していました。

ホームページの制作会社はとても順調に成長していきました。AVサイト制作だけでなく、大きな契約も入ってきて、そんななかでセックスグッズ関連の仕事を始めたから、まあ周囲から反対されましたね。ただ、女たちの経済という観点からすると、男を介さずにお金が女同士でまわるっていうのが、すごくいいことだと思ったのです。家電一つを見ても、男たちが考えた気持ち悪いピンクの家電を女が買うというのではなく、女が女のために作ったものを女が買うっていうのが健全でしょって。しかも性に関わる商品となれば、これまでになかったものを作れるだろうと考えたのです。そうしているうちに、ラブピースクラブの活動が忙しくなって、ホームページ会社は数年した後で活動を終了しました。

キョンヒ:ラブピースクラブもはじまってすぐにうまくいったんですね。当時原宿に小さな店があったことを覚えています(1998年、北原がプロデュースしたMade in LOVEというお店が原宿につくられた)。セックスグッズショップができたと話題になっていました。大学時代に友人と行った記憶が急によみがえりました(笑)。ところでご家族や周囲の人の反応はどうでしたか? 当時みのりさんはメディアでも相当注目を浴びていましたよね。

みのり:とても応援をしてくれましたよ。祖母もすごく喜んでくれて、こんなの要る?とか言って昔の春画みたいなものを寄贈してくれたのですが、要らないとも言えず、今も捨てずにとってあります(笑)。母親も変な人で、当時50歳くらいだったのかなあ。お友達にバイブ配ってましたもん。よくやるねと思って(笑)。

キョンヒ:私が生きてきた世界と違うので痛快です。面白いですね。

みのり:でもすごいひらけていたという感覚はないです。母も父の顔色をうかがいながら生きてきたなかで、でもなぜかバイブは女友だちにプレゼントするっていうのが面白いですね。

■フェミニズムではなく「表現の自由」の問題?

キョンヒ:グッズでなくコンテンツを作るつもりはありましたか? 女性たちのための。

みのり:もちろんありました。むしろはじめは製作に関心がありました。けれども女性たちにとってセックスを楽しむこと自体が許されていた時代でもないので、ファンタジーを売るよりも、セックスやプレジャーのイメージを変えたいという意味でグッズの普及にこだわりました。はじめはフェミニストが作ったポルノや女性監督が作ったAVも売っていましたが、今はもうしていません。

理由の一つは、2014年に私が逮捕されたことです(注: みのりさんは女性器の形をした作品をショップに陳列したという理由で逮捕された経験があります)。もう一つは、多くのAV被害者たちが声をあげ始めたこととに関連します。いくら女性監督が作ったと言っても、被害者がいないとは限らない。被害を生む構造の中で作品が生産されていることが見えてきました。ですから、ここ10年は表現物を取り扱うことはしていません。

キョンヒ:逮捕についても聞かざるをえないのですが、不当逮捕をされ、またその後、アーティストのAさんとも葛藤があったと聞いています。そのときのことを話していただけるでしょうか。

みのり:本当に心から傷つく事件でした。女性の性器をアートとして表現してきた芸術家たちはそれまでも多くありました。単に「表現の自由」の観点からではなく、女性の身体に対するエンパワーメントにつながることだと考えての作品です。だから私はAさんが最初に不当逮捕された時に彼女を支持しました。

ところがAさんもそうですが、彼女を支持するリベラル派たちはこの件を「表現の自由」問題として掲げていきました。

私にとって、これは表現の自由の問題ではなく、男たちのAVショップでは暴力的なポルノ表現があんなに溢れていてもとがめられず、女性が自分の性器を作品にして頒布することが「猥褻物配布罪」になるという不平等構造こそ問題だと思ったのです。

けれどもAさんとその支持者たちは、「これはフェミニズムの問題ではなく、表現の自由、反権力の問題だ」という方向へ引っ張っていったため、彼らとかみ合わなくなってしまったのです。

そんななかで今度は私が逮捕されたのです。彼女の作品を陳列したという理由ですが(実際には罪に問われた作品はAさんのものではなく、Aさんのワークショップに参加した女性たちのものだった)、ともかく警察には私がAさんのグループの一員に見えたでしょうし、またセックスグッズを売る人間なら最もダメージが大きいはずだと思ったのでしょう。

多くの人が、私が容疑を否認してAさんとともに闘うことを願っていましたが、私は「これは私の闘いではない」と判断しました。だから「罪」を認めて3日間で出てきました。

その後がさらに大変なことになりました。

私は「表現の自由」を抑圧する権力に屈服した裏切り者にのように批判されました。表現の自由対フェミニズムという奇妙な対立構造の溝にはまったようでした。

女性器表現を巡る闘いを「フェミニストの反権力運動」とされていましたが、私には「表現の自由」という名で女性搾取的な表現までも擁護する自称リベラル男性たちの闘いに巻き込まれているようにしか見えませんでした。日本社会においてこの論調は女性の尊厳や人権とは別の次元で展開されています。実際に表現の自由の名のもとで、彼らはヘイト表現まで擁護しています。

いまだにこのことはうまく言語化できません。

何にせよあのときから、私にとって表現の自由とは何か、暴力的でないAVが存在し得るのか、私がそれに加担していないかと問い続けるようになったのです。


■「韓流」はフェミであり、エロである

キョンヒ:韓国との縁も格別ですよね。日本軍「慰安婦」運動や韓国のフェミニズムとはどういった経緯からつながったんですか?

みのり:1990年代から「ナヌムの家」を訪ねたり、韓国のアーティストたちと一緒に活動したりしていました。またソウル国際女性映画祭の第1回、第2回にも参加しました。チヒョンというフェミニストの歌手が私を招待してくれたのですが、韓国は2000年代初めに女性家族部ができたり、LGBTフェスティバルが開かれたり、多様で民主的なムーブメントがありましたよね。そのときから、同時代の韓国のフェミニストたちに注目するようになりました。ただひたすら「すごい」と感じていました。映画祭も本当に面白く、それが公的資金で運営されているという点もものすごいことだと思っていました。

日本も男女共同参画基本法が制定され、イベントも色々行われましたが、韓国のほうがとても楽しそうに見えたのです。同じ世代の20代フェミニストたちが軽いフットワークで動いていることが大きかったと思います。日本ではどこへ行っても、いつも私が一番年下でした。韓国は同世代がとても活発的だったからこそ、ずっとすごいとよく見えたのでしょう。

「慰安婦」運動と関連して、私は1995年当時「アジア女性基金」ができたときに寄付をしようとした側でした。当時尊敬していた下村満子さん、上野千鶴子さんなどたちのフェミニストの先輩たちが基金を支援していましたので。その後(基金に対する)反論が出てきたとき、何が正しいのか深く考えることをせず、とりあえず脇に置いて判断を保留しました(注: 当時日本の「女性のためのアジア平和国民基金」は、国民の寄付という形で被害者たちに慰労金と総理の謝罪の手紙を送ったが、これは「慰安婦」当事者たちが要求していた国家としての、法的な責任を回避するやり方であるという点で批判を受け、韓国では多くの当事者たちが受け取りを拒否した)。

今振り返れば、私自身も少し傲慢だったと思います。あんなに韓国が好きだと言いながら韓国語を学ぼうと思いもしなかったんですから。交流のときはいつも韓国の方々が日本語で話してくださるし、英語で会話していました。「アンニョンハセヨ」とすら言おうとしなかったのです。後に韓国語を勉強し始めたきっかけは「チャングム」です。ドラマを観ながら過去の自分を思いだして相当反省しました。

ドラマ「チャングム」は本当に私の人生を変えました。2005年ごろに3カ月間、韓国に短期語学留学に行ったのも「チャングム」脚本家キム・ヨンヒョンさんと何としてもお話ししたかったからです。挨拶くらいは韓国語でしたい、広告ポスターくらいは読めるようになりたいと思ったからでした。実際にキム・ヨンヒョンさんと会ってインタビューもしました。もちろん3カ月では韓国語を身につけられませんでした。ハン尚宮のかつらを買って帰りました(笑)。しばらく家でかぶっていました。

韓国に行くたびに時代が刻々変化ていると実感しました。初めて行ったのは1992年ごろでしたが、こんなに近い国なのに、どうして女性たちがこんなに生きづらそうに見えるんだろうと思いました。一緒に旅した母と東大門に行くと、タバコを吸う女性が叱られる雰囲気でした。女性たちは化粧が濃すぎるし、タクシー運転手は怖いし……。

北原みのりさんが2013年に出版した本『さよなら、韓流』

キョンヒ:『さよなら、韓流』はとても面白かったです。韓流ブーム初期に出たころにあった「日本の中年女性たちが純粋な初恋を思い出しながら韓流スターに夢中になった」という説はあまり説得力がありませんでした。もっといろいろな視点から論じられるべきだと考えていたところでしたが、あの本は韓流がフェミであり、エロであるということを書いてますね。女たちの欲望としての韓流を語っていて痛快でした。

みのり:うれしいです。私もヨン様には関心がなかったのですが、再放送を観るため深夜に起き出す祖母を見て「いったいこれは何?」と気になり始めました。新大久保に行けば以前とはまるで違う、女たちの街に変貌していました。さらに「チャングム」を観た友人が語りながら突然わんわん泣き出すのです。「チャングム」にすっかりハマり、「砂時計」などの現代史ドラマも見てさらに驚きました。その時は本当に時間がいくらあっても足りなくて……。それほど女同士で韓流を語るのが楽しかったのです。

私が焦って韓国語を学び始めたように、みんながみんな韓国語を学び始めました。いま考えてもとんでもないことです。メールアドレスのなかった60代の女性たちが、韓流情報を得るためにインターネットを始めたとか、夫の稼ぎでは遊べないからと初めてアルバイトを始めたとか……。そんなすごいムーブメントを韓流は起こしたのです。韓国ドラマはラブコメでも政治的な要素が入っているじゃないですか。フェミニズム、民主主義、そして素敵な男(笑)。言葉の厚みと言いますか、自分のなかで色々なことが塗り替えられました。

そして、東方神起にハマって本当によかったなと……(笑)。友人が見たことのないすごい男たちがいるから、一緒に見ようと(笑)。東方神起を追いかけて色んな国に行って、アジアの女性たちで韓国語で歌を歌うとかすごいことですよね。韓流を語り合うのが楽しいのは、女たちと日本社会の悪口を言えるからでした。「反日」よりは「抗日」に近いと思います。日本のダメなところに気づかせてくれて、これまで与えられてきた文化、これが最上と思わされたものが実はまずいものだったということを韓流が教えてくれました。その一方で、男たちの文化と言うべきか……、2002年日韓ワールドカップを契機にネット右翼の「嫌韓」が同時並行に進みました。これは、女たちが好きなものに対する男の軽視と侮蔑が含まれていたと思うのです。

後編に続く)

【筆者紹介】趙慶喜(チョ・キョンヒ)。聖公会大学東アジア研究所教員。歴史社会学、マイノリティ研究。主な共著に『主権の野蛮:密航・収容所・在日朝鮮人』、『「私」を証明する:東アジアにおける国籍・旅券・登録』、『残余の声を聴く:沖縄・韓国・パレスチナ』、主な論文に「裏切られた多文化主義:韓国における難民嫌悪をめぐる小考」「韓国の女性嫌悪と情動の政治」などがある。

 

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趙慶喜

趙慶喜(チョ・キョンヒ)

趙慶喜(チョ・キョンヒ)
聖公会大学東アジア研究所教員。歴史社会学、マイノリティ研究。主な共著に『主権の野蛮:密航・収容所・在日朝鮮人』、『「私」を証明する:東アジアにおける国籍・旅券・登録』、『残余の声を聴く:沖縄・韓国・パレスチナ』、主な論文に「裏切られた多文化主義:韓国における難民嫌悪をめぐる小考」「韓国の女性嫌悪と情動の政治」などがある。

 

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