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第一回 上野千鶴子 化粧をめぐる省察 

上野千鶴子2014.02.27

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 LOVE PIECE CLUBから、こともあろうにわたしに化粧をテーマに語らせようというオファーがきた。それもこれからシリーズで始める第1回なんだって。ひとが悪くないか?

 

 フェミニストというと化粧は×、ということになっている、らしい。らしい、というのは、わたしはそう思わないからなのだけれど。わたしはメークをしている。ま、薄化粧メークというやつ。メイクをしても落としてもたいして落差のある顔をしていないのと、メイクの技術がない、メイク道具がない、めんどくさい、のでやらないのだけれど、それでもやっぱりしている。メイク・リテラシーは高くないし、化粧品におカネを使わない。年齢をとるとファンデを塗らないと顔色が悪くみえるのと、口紅と頬紅をささないと暗く見えるのでやっているが、アイ・メイクはしないし、マスカラのような高等技術にはとうてい手が出ない。若い頃はファンデを塗ったり落としたりがめんどうだから塗らなかったが(その頃はお肌もきれいだったのかも)、それでもチークとリップだけは塗っていた。『週刊金曜日』が「食べてはいけない!」で「口紅は食べものと共に口に入る毒です」みたいなことを言っているのを知っていても、毒を塗っていた。

 

 

 フェミニストはブラジャーを焼き、ヒールのある靴を捨て、すっぴんで出歩く、ことになっている、らしい。たしかにフェミニストのなかには、化粧している女を軽蔑する、と公言しているひともいる。でもおもしろいのは、Tシャツから乳首が見えるようなかっこをしているアメリカのフェミニストだって、ぶらぶらする大きなイヤリングをつけていたりする。メイクはだめでも、アクセサリはよいのか?

 わたしは一時ブラジャーをやめていたが、それは肩こりのせい(肩が凝るほどのおっぱいでもないのだけれど)。ボディラインが出るオヨーフクのときにはブラジャーを復活する。

 

 

 ヒールのある靴をほとんど捨てたが、それは外反母趾のせい。痛くて履いていられないから。何に萌えポイントがあるか、反対に何にむかつきポイントがあるかは人それぞれ。わたしはピンヒールを履いている女をどうしても好きになれない。あんな歩けない靴をよく履いているものだと思う。ヒールを現代の纏足、と呼んだひとがいるが、よくぞ言ったと思う。よちよち歩きのバランスの悪い、走るに走れない靴は履きものとは言えない。3.11の帰宅難民のときにヒール靴の女が難儀した、というのを聞くと、同情よりもザマミロ感がある。バランスを崩して足首捻挫しろ、と呪ったり。とはいえ、外反母趾になったのは若い頃、8センチヒールを履いていたせい。理由は「女らしい」からではなく、「チビ・コンプレックス」からの上げ底だった。なにしろあの頃は、殿中松の廊下みたいな、靴を脱ぐとおひきずりになる、脚よりながーいパンタロンというしろものが流行っていたのだ。

 

 

 リブの田中美津さんは、「化粧が媚びなら、素肌も媚びよ」と言い放つ。どちらも記号だ。すっぴんはすっぴんで「私は自立した女よ」という記号。この記号は、アメリカの大学キャンパスでは階層の記号になる。すっぴんなら教授、メイクをしていたら秘書、というぐあいに。メイクの濃い日本人の女子留学生は、場違いなところに来たみたいに、欧米のキャンパスでは浮く。逆にメイクをするのがスタンダードの職場にノーメイクで行くと問題児扱いされるだろう。

 

 

 そう考えれば、メイクだって集団の記号。入れ墨文化みたいなものだと思えばよい。みんなが入れ墨してるときにしないのははずれものになるし、逆にだれも入れ墨していないところで入れ墨するとそちらがはずれものになる(わざとはずれものになりたい人もいる)。

 

 

 メイクにはあまり関心がないが、おしゃれは好きだ。すっぴんの女性にだってしゃれっ気はある。そのおしゃれも記号の一種。小倉千加子さんが「きらいなもの」のなかに「草木染めを着た女性」を挙げていたが、爆笑してしまった。それだって、「ナチュラル」「エコ」という記号消費にはちがいない。

 
 わたしは若い頃から、おおぶりのアクセをじゃらじゃらつけるのが好きだった。わけても好きだったのが、イヤリングとブレスレット。つけわすれるとハダカで歩いているような気がした。メイクが習慣になった女性も、ノーメイクで出歩くと同じ気分になるんだろうな。いつ会っても鉄壁のメイク美人がいて、そのひとの素顔を見たことがないのだが、会う度に、このひと、メイクで武装してるんだろうな、と思う。世の中に対してそんなに身構えなきゃいけないのもたいへんそう。

 

 

 メイクが×なら、アクセも×?よけいなしばりを身体からとりさって「ナチュラル」な自分を肯定する?それがフェミニズムだとしたら、そういうのをフェミニズム原理主義と呼ぶ。おおかたのひとの予想に反して、わたしの回りにはフェミニズム原理主義者はほとんどいない。こういうフェミニズム原理主義って、フェミぎらいな人たちが妄想でつくりあげたもんじゃないか、と思う。周囲には、すっぴん原理主義者もいなければ、アクセ廃止論者もいない。どのひともおしゃれ好き、うつくしいもの好き。うつくしいものを身につける快感は、おんなでよかった、という快感だ。くやしかったらあんたもやってみたら、という思い。

 

 

 わたしが「フェミニスト」として世に出始めたころ、「ウエノさんを見て、フェミニストもおしゃれしていいんだと思った」というひとがいて、びっくり。やっぱりフェミニストはおしゃれ排除の原理主義者だと思われていたんだろうか。

 

 

 自分がいろんなアクセをじゃらじゃらつけていたとき、自分に与えた正当化の理論は次のとおり。わたしは人類学をかじっていたから、人類史始まって以来、身を飾らなかった人類はいない、ということを知っていた。ときには自分の身体に傷をつけ、変形してまで、人類は身を飾ってきた。わたしはイヤリングが好きなのに、ピアスはキライ。耳に穴を開けるなんて、こわすぎる。ピアスを開けると選ぶ種類が豊富になるのだけれど、こわさが先行してやらないのだから、おしゃれだってそう徹底性があるわけじゃない。アメリカのすっぴんフェミニストが、それでもピアスだけはほとんど誰でも開けているのだから、彼女たちも身体加工はOKなのだ。ピアス穴と整形とのあいだに、どのくらいの距離があるだろう?

 

 

 何を「うつくしい」と思うかは文化が与えた価値観。わたしたちの目にはうざくても、その集団のひとびとにとってはうつくしい、のだろう...と、へりくつをこねる程度のひねくれものだったので、女のおしゃれも、男に向けた媚びであるだけでなく、これから男女平等というものが進展するとしたら、女がおしゃれをやめる方向にではなく、男がおしゃれをする方向に行くだろう、と予想したら、そのとおりになった。脱毛ボーイが登場したり、男性用メイク用品が売り出されたら、「やっぱり」とおもう程度の「先見の明」はあったのだ。だから男の化粧を見て、キモチワルイなどとは思わない。

 

 

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 それに化粧やおしゃれは、ほんとうに男への媚びだろうか?最近のエステ・ブームや進化した(らしい)メイクのスキルを見ていると、おそらく女性のナルシシズムの回路は異性の視線を経由して、反転して同性集団に向かって自己完結しているとしか思えない。それもわたしが『スカートの下の劇場』(河出書房新社、1988年)で論じたことだ。たいがいの男は、女が入れこんでいる(まったくカネと時間とエネルギーの投じ方と言ったらハンパじゃない)メイクやファッションに、たいがいの女ほどリテラシーがない。女同士なら見たとたんにどれだけの投資とスキルがかかっているかを見抜けるような、読解力がないのだ。なら、気張っておしゃれしていくのは同性の視線が目当てだ。男相手には男にわかりやすい「女装」をしていけばよいだけ。

 
 こういう目的と手段の関係が断ち切られて、手段の目的化、てゆうか、メイクのためのメイク、ファッションのためのファッションが始まるのを、倒錯とも頽廃とも呼ぶのだけれど、頽廃もまた文化の成熟度の一種。この頽廃が女の世界で発酵していくのを押しとどめることはできないだろう。

 

 

 こういう文章が返ってくるのを、頼んだひとは予期していなかっただろうな。というわけで、これがうえのの「化粧論」なのでした。

 

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