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<緊急寄稿>棚卸日記 Vol.8 「搾取構造の告発は『差別』なのか」

爪半月2022.05.21

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◆障害者だと思われたくない心理の裏にある、障害者に対するスティグマ◆

社会的に立場の弱い人や、トラウマや障害があって判断力が脆弱な人が性産業で搾取され易い構造があると指摘すると「セックスワーカー」に対する偏見だと猛バッシングが起こります。「障害者と一緒にしないでほしい」という当事者もいましたが、そうした反発に込められた、障害者に対する差別心には既視感がありました。

まず前置きとして、私自身が障害者です。詳細は端折りますが手帳は2級です。

私は幼少期から生きづらさを抱えていましたが、虚栄心の強い母親は「立派な私が産んだ立派な娘が障害者であるはずがない」と頑なに否定し、私は医療に繋がることができませんでした。

生産性至上主義を信奉していた母は、障害者について誤解し、障害者を「運の悪い気の毒な存在」だと同情し、見下し、強烈に差別していたのです。

幼かった私は、母に少しでも自分の存在を認めてもらうために学校の勉強は必死でやりましたが、皮肉なことに、勉強ができたせいで母の虚栄心に益々拍車がかかってしまい、中学で死にたくなって病院に行きたいと懇願しても黙殺されました。母を満足させるために入った進学校で、私のおかしさに気付いた先生が、こっそりと母を呼び出し、病院に連れていくよう打診した際も、母は頑なに拒んだそうです。(その話は、大人になってから同窓会の席で当時の担任から聞かされました)

結局、私が医療に繋がれたのは30歳を過ぎてからでした。

それまでは、誰の助けも得られないまま、「病院に行くのは恥ずかしいこと」という洗脳に邪魔されて、五里霧中のまま、あらゆる困難を自分一人で解決させてきました。自分一人で解決できない場面に遭遇するたびに、私は服を脱ぎ、自分の人権を目先の現金に換金して生きてきました。そして私以外にもそういう子をたくさん見てきました。限られた、しかも偏った情報の中で適切な医療に繋がることを阻まれ続け、傷付き続ける女性たちを何人も見てきました。彼女たちは、とても真面目なのに混乱していて、うまくいかないのです。

もしもっと早く医療に繋がれていたら…障害や福祉に対する誤解を払拭する機会に恵まれていたら…そんな悔しさを溶けかけの奥歯で噛み締めながら書いています。

 

◆当事者の尊厳を毀損しない支援のあり方を考える◆

そして、こうした指摘が「障害者に対する差別だ」という批判もありました。

もし、「障害者は風俗で働くな!」と禁じたなら、それは紛うことなき差別でしょう。

障害当事者の行動を監視し、コントロールしようとすることは主体性の侵害です。

では、「障害のある女性を狙って搾取する人間を告発すること」は障害者に対する差別なのでしょうか。明確にそうした搾取の類型が存在して、すでに深刻な人権侵害が起きていても告発すべきではないのでしょうか。

もし、「あなたは支援が必要な弱い人です」と一方的に言われたら、誰しもが「はぁ?馬鹿にしないで」と反発することでしょう。

では、複雑な事情を抱える当事者のために支援施策を打つことは差別なのでしょうか。シングルマザーに児童扶養手当を支給することはシングルマザーへの差別でしょうか。

ケースワーカーが障害当事者に、「障害年金の申請をしてみませんか」と打診することは、障害当事者への差別なのでしょうか。

日本の社会保障は申請主義が基本なので、制度から取りこぼされてしまう人が大勢いますが、そうした人たちを取りこぼさないように、社会に足りていない施策について福祉ニードを可視化させ、制度拡大の必要性を議論することは、果たして「差別」なのでしょうか。

確かに、世間に充満する「被支援者=支援される客体」というスティグマは当事者の尊厳を深く傷付け、弱体化させます。また同時に、自分自身が世間の偏見を内面化してしまうことにより生じるセルフスティグマが、支援拒否といった拒絶反応を引き起こすこともあります。

では、当事者の決定を尊重して社会は何もしなくていいのか?という問いに立ち戻ったとき、「何もしない」という選択は社会保障費を節約したいネオリベ政治に餌を与えるだけだという結論に打ちのめされるのです。

だから私は、ずっとアンタッチャブルとされてきた性産業の格差構造に言及することに決めました。今現場にいる当事者を無理矢理にでも引っ張り出して支援に繋げるべきだ!といった主張はしてません。その世界で過剰適応してる当事者に対し、一方的な介入で急激な変化を強要することは困難です。

ですが「これ以上の被害を止めるために搾取構造を解体する」ということは可能ではないのでしょうか。そうした議論ですらも「障害者差別やめろ」と言うなら、私は自分の後悔を吐露することすら許されないのでしょうか。

 

◆支援者に対して感じていた不信感・疎外感◆

ずっと一人で生きてきた私は、かなり長い間「支援者=傲慢」と思い込んでました。

当時の自分を代弁する言葉を宮地尚子著『環状島=トラウマの地政学』の「ポジショナリティをめぐる議論」から引用します。

"FGM(女子割礼)については、フェミニストたちが「女性差別問題」「女性への暴力」「家父長制の暴力」と捉えて、この問題を根絶しようと運動を起こしたが、現地の女性やその地域の専門家からは批判がなされた。「同じ女性」といった形で雄弁に語るけれども、あなたたちは「第一世界の女性」であって、必ずしも当時者性(被害者性)を共有しないではないか、支援者として語るにしても、当事者のおかれた文化的文脈や現地の事情を知らなすぎるのではないか"

これを読んだとき、私が以前支援者に対して感じていた感情はこれだ、と共感したのを覚えています。

他人が個人の人生に支援目的で一方的に介入してきて、習慣の変化を強要することの傲慢さについて、"支援されるべき対象"だった個人としても、ずっと懐疑的だったのです。

私自身が支援者=傲慢というイメージをずっと持って生きてきた人間です。

社会的評価の高い支援者たちを心のどこかでブルジョア視してしまい、彼らを自分の劣等感を煽る存在として敵視し、「けっ」という気持ちで憎んでいた時期すらありました。

そして自力で生き抜いてきた自負があったので、「助けてもらうのは恥ずかしいこと」というウィークネスフォビアを内面化させていました。

ところが、コロナ禍でソープ嬢だった知人が自殺して以降、私の考え方は180度変わりました。

苦しむ知人の愚痴を聴きながら、福祉に繋げたいと願っても、「風俗で頑張ると言ってる本人の決断を否定してはいけない」と逡巡し、結局、私は何もできませんでした。

そして訃報を受けてから、もう毎晩のように「何もできなかった」自分を責めました。

そこにはサバイバーズギルドのような罪悪感もあったかもしれません。

それ以降、「助けて」という援助希求が出せない人に対して、どのような支援が可能なのか必死に勉強してきました。そして、実際に支援者と関わることで、自分が抱いてた傲慢なイメージが間違っていたことにも気付きました。それについては長くなるのでまた書きます。

 

◆今この瞬間からできることを◆

当事者の人生に強引に介入して生き方を変えさせることは難しいですが、政治に福祉拡充を訴えることで社会を変えることは今日からでも可能です。

そして、生活保護や障害に対する世間の誤解やスティグマを解消するために勉強したり、発信することも、今この瞬間からできることです。

個人の決定を尊重する」という行為は、「責任はあなたにある」というメッセージにもなってしまうのです。

選択肢を持たない人に対してそうした態度を取ることが本当に正義なのか、今一度考えてほしいです。

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