
女性に対し、「自分の意見を持たず、男性の意見を無条件に肯定する従順さ」を期待する男性優位社会の欲望を具現化した表象が「女子アナ」である。
「女子アナ」が人間扱いされていないのは大昔からだった。以下に解説する。
(※はじめに書いておくが、これは「女子アナ」に対する批判ではない。「女子アナ」を希求する男性優位社会を批判する記事として読んでほしい。)
◇『Male as Norm』「女性○○」という修飾語◇
例えば、「社長」という言葉は暗に男性であることが前提視され、女性の場合に限って「女社長」という表現が用いられる。「女医」「女性ドライバー」なども、暗にその職業の標準は男性であることを示し、女性を例外的に扱う意味で「女性」という修飾語が用いられる。英語では、「man」は人類の基本形として扱われ、人間一般も意味すれば男性も意味する。「wo-」をつけて形成される「woman」は、男性を標準と見做す社会において、女性を例外的存在や補足的立場として扱うことを意味する。「actor(俳優)」に対する「actress(女優)」のように「-ress」という接尾辞が付くパターンも同じだ。
「アナウンサー」という言葉は、男性であることを前提視した言葉だ。だから男性アナウンサーにはいちいち「男性」がつかない。アナウンサーと言えば、まず想起されるジェンダーは男性なのである。"なぜなら一般的に、「人間」という言葉は男性を指しているからだ"(『存在しない女たち 男性優位の世界にひそむ見せかけのファクトを暴く』より引用)
このように、「アナウンサー」ではなく「女性アナウンサー」という表現ひとつとっても女性の社会的地位の低さが反映されている。さらに、「女子アナ」は「女性アナウンサー」よりさらに劣った存在として扱われている。
◇「女性」ではなく「女子」を好むペドフィリア傾向社会◇
「女子アナ」という言葉は男性社会により産み出された言葉だ。「女子」という日本語は、一般的に若い女性や少女を指すニュアンスを含む。そのため、「女性」ではなく「女子」という言葉が採用される背景には、女性に対し「男性社会の脅威とならない存在」であることを期待する男性優位社会の心理が反映されている。男性社会には、女性が成長し、自己主張や独立性、政治的意見を持つ存在になることを潜在的に恐れる心理が根深くある。これは支配者層としての制度的特権性が脅かされることに対する恐怖だ。女性に幼さや未熟さを求める傾向は男性社会が未熟であることの証左だと言える。成人女性に対して「女子」という表現が使われることで、その人の成熟度や専門性は矮小化される。「女子アナ」は、女性を専門的スキルを持つ存在としてではなく、愛らしさや親しみやすさを提供する役割に限定することを暗に示唆する言葉なのだ。つまり、「女子アナ」には、プロフェッショナルとしての役割(アナウンサー)よりも、若さや容姿、男性の意見を否定しない従順さ、自分の意思や政治性、イデオロギーを持たない未熟さが要求される。性的魅力を過剰に重視する文脈と結びつくことが多く、女子アナがにっこり微笑むカレンダーなどが製造され、専門的スキルよりも容姿や態度が評価の対象となる構造が助長される。女性に対し性的魅力を過度に重視することは、女性が持つ知性や人格を軽視することと同義だ。
“子どもへの性加害をする者とそうでない者が地続きにある社会、それによって子どもへの加害行為が後押しされる社会”を、斉藤章佳氏は「ペドフィリア傾向社会」と表現しているが、この理論を踏まえれば、男性社会が「女子アナ」を希求する心理も地続きと言えるだろう。
「女子アナ」はアダルトビデオの人気ジャンルにランクインするくらい、男性優位社会の中で性的客体としての位置付けを余儀なくされている。
◇女子アナ定年差別問題の残滓◇
50年前の日本では、アナウンサーという職業に対し男女別定年制が布かれていた。
また、当時は結婚退職制度(結婚した女性は退職する慣行)が当然視された時代だった。
当時フジテレビの女性アナウンサーの定年は25歳だったし、他のほとんどの局も女性の定年は25歳/30歳と、男性に比べ極端に若かった。こうした差別的取扱いに対し、名古屋テレビの女性が「女子30歳定年制は憲法違反、解雇は無効」として名古屋地裁に提訴。そして、1974年の名古屋高裁による労働者勝訴判決を持って男女別定年制は廃止へと向かい、原告女性らは職場復帰を果たした。(女子若年定年制事件)
その後、1986年男女雇用機会均等法の施行を機に採用と昇進の機会均等が目指されたが、女性を従属的地位に固定化したい男性社会の価値観は根深く残った。
「女子アナ」とスポーツ選手の結婚報道などに見られるように、女子アナは「男性を献身的に支える存在」「決して男性社会を批判しない男性にとって安全な存在」として愛され続けているのだ。
◇社会的洗脳装置としてのテレビ◇
「お天気お姉さん」に代表されるように、テレビ業界では科学的知識や生活史に関する専門性よりも、サラリーマンを癒す微笑みを提供する若い女性が抜擢されてきた。男女雇用機会均等法が施行された後も、「整えられた髪」や「シミひとつない皮膚」「ミニスカート」といった、気象情報の正確性とは縁もゆかりもない性的記号が重視される傾向は是正されなかった。
「女子アナ」として扱われる20代から、その後もキャリアを勝ち取り「女性アナウンサー」となれる人は一握りで、依然として「若い女性」に対する男性社会の熱望は強烈に正当化されている。(そして、このように苛烈な生存競争を潜り抜け、晴れて「女性アナウンサー」となった中高年女性は得てして名誉男性化してしまうという不幸な傾向がある。このように、「女性を差別する女性」「男性社会の補完勢力としての女性」についてはまた別の機会に詳述する)
冒頭で、「女子アナ」は、「自分の意見を持たず、男性の意見を無条件に肯定する従順さ」を期待されていると書いたが、仮に男性につっこみを入れるとしても、絶対に男性のプライドを傷つけない角度と強さでなければならないのだ。なぜなら、この国では男性に恥をかかせた女は地の果てまで追い掛けられて殺されるから。
このように偏ったロールモデルをテレビを通して受動的に学習させられることにより、私たち視聴者は、「女性とは自分の意見を持たずに男性を肯定し相槌を打つだけの存在である」という規定を内面化させられていく。さらに、「ロールモデルに偏りがある」ということに関する解説は一切なされないため、私たちは偏りを認識できないまま、あたかもそれが常識であるかのように洗脳されてしまう。ニュースという極めて公益性の高い媒体が社会的洗脳装置として機能しているのだ。
化粧をしていない太った中年女性が当然のように敬意を払われている、そんな世界を私は観たい。そんな世界で呼吸をしたい。自分の意見を堂々と主張する女性を見たいし、女性の意見が軽視されずに尊重される世界が見たい。女性が持つ正義の感覚にもっと触れたい。
「セクハラのあしらい方に長けた女性」は見たくない。セクハラ発言や行為に対し、「男性を怒らせないようにかわいらしく嫌がる女性」はもう見たくない。
女性が人権侵害に対して堂々と怒れる社会にしなければならないし、男性はそもそも女性にセクハラをするな。
女性が意見を言えないのは女性のせいじゃないし、女性が怒れないのは女性に勇気がないからではない。女性たちの意見表明や怒りの発露を禁止する空気を作ってきた責任は男性社会にある。
◇女性だけのテレビ局がほしい◇
フジテレビが倒産の危機にあるという報道を見たが、倒産すればよい。倒産して、社長からプロデューサー、放送作家、MC、ゲスト、全部女性の局に生まれ変わればいい。フジテレビの記者会見を見てもわかるように、今までのメディア業界の意志決定層は男性が独占してきたのだから、女性だけの局ができてほしい。これはまったく極端な要求ではない。むしろ、今までの男性優位社会があまりにも極端だったのだ。