今、オーストラリアで起きたある事件が世界中で大きな議論を呼んでいます。女性トイレに侵入し、約150人もの女性を盗撮していた男性が、罪を受けることなく釈放されたというニュースです。多くの人が驚いたのは、その理由でした。裁判官は、その男性がまだ若いこと、そして「自分のジェンダーがはっきりしていないため女性トイレに入った」と説明したことを考慮し、こうした判決を下したとされています。
しかし、その男性は23歳で、しかも医学生です。このまま医師になれば、将来女性患者と接する可能性も高いでしょう。その状況に不安を覚える女性が少なくないのも当然ではないでしょうか。
一方で、オーストラリアでは別の出来事も起きています。トランスジェンダーの人に対して「ミスジェンダリングをした」として訴えられた女性が、約9万5千ドルもの罰金を科されたという事例です。この二つの出来事を並べて見ると、多くの女性が複雑な感情を抱くのも無理はないでしょう。
さらに現在、オーストラリアでは、生物学的女性であるレズビアンが女性だけの集まりを開こうとしたところ、それをめぐって政府との法的争いが起きています。レズビアンの団体は「女性同士で集まるイベントを認めてほしい」と訴えていますが、それ自体が特定の対象に対して排除的で差別的だとして、大きな論争の対象になっているのです。
よく「少数者の権利が守られる社会では、女性の権利も守られるはずだ」と言われます。しかし本当にそうなのでしょうか。その「少数者」の中に、女性はきちんと含まれているのでしょうか。現実には、女性たちが女性同士で集まる権利さえ奪われつつあるのではないでしょうか。
女性専用の空間は、決して特権として存在してきたわけではありません。多くの場合、それは女性が安全を確保するために、長い時間をかけて社会の中で作られてきた場所でした。女性専用車両、女性専用シェルター、女性専用の相談窓口などは、女性が暴力や被害から身を守るために生まれたものです。しかし近年、それらの空間そのものが「排除的ではないか」という議論の対象になる場面が増えています。
ここで一つ、素朴な疑問が浮かびます。彼らが訴えている多様性に、何故"生物学女性だけを安心して接せる生物学的女性"というカテゴリーは入っていないのでしょうか。
歴史を振り返ると、権力が人々を統制する際に最も効果的な方法の一つは「人々を集まらせないこと」でした。日本による植民地支配の時代、朝鮮では三人以上で集まることが禁止されていたといわれています。また現代でも、韓国では労働組合への加入を難しくしている企業が少なくありません。弱い立場にある人々が集まり、互いの経験を共有し、声を上げることを防ぐことは、権力にとって非常に都合のよい統制方法なのです。
しかしここで考えてみたいことがあります。黒人の人々が差別の経験を共有するために作った集まりに対して、「白人が排除されている」として白人が法的闘争を起こした例はあるでしょうか。私の知る限り、そのような事例はほとんどありません。現代社会では、共通の経験や背景を持つ人々が集まること自体が違法とされることはほとんどありません。
ただし、ひとつの例外を除いて。それは「生物学的女性だけが集まる場」です。
近年よく語られる「すべての人のためのポリティカル・コレクトネス」という言葉があります。本来、ポリティカル・コレクトネスは弱い立場に置かれた人々を守るために生まれた概念だったはずです。しかし現実には、その議論の中で女性の存在が曖昧に扱われる場面も少なくありません。「すべての人のため」と言われるとき、その「すべて」の中に女性は確かに含まれているのでしょうか。
もちろん、オーストラリアは韓国や日本と比べて、女性の権利に関する議論が活発に報道される社会でもあります。今回の盗撮事件ひとつを取っても、社会が大きく揺れるほどの報道が行われました。その点では、アジアの一部の国々より女性の権利が守られているのではないかと感じる人もいるかもしれません。
しかし同時に、この出来事を見ていると、オーストラリアでさえ女性の権利が揺らいでいるのではないかという不安も感じます。女性の空間や権利が徐々に侵食されているのではないかという疑問を、多くの女性が抱いているのです。
世界では今もなお、女性が男性の求愛や関係を拒んだという理由だけで暴力を受けたり、命を奪われたりする事件が後を絶ちません。誰かにとって自分が拒絶の対象になることがあるという事実、自分が入ることのできない集団が存在するという現実。こうした当たり前の境界を受け入れることが、長いあいだ男性中心の権力構造の中で生きてきた男性たちにとっては、理解しにくいものなのかもしれません。
そしてその感覚が、現在のジェンダーをめぐる議論の中にも表れているのではないでしょうか。女性の空間や権利が問い直され続ける社会の中で、 私たちはいま一度、この問いに向き合う必要があるはずです。本当に守られるべき権利とは何なのか、そしてその中に女性はきちんと含まれているのか。さらに、女性とは何を意味するのか、「女性」という言葉は誰のためのものなのかという問いです。
社会の中には、誰にとっても開かれているべき場所もあれば、特定の経験や背景を持つ人々が安心して集まることのできる場所もあります。その両方が存在してこそ、多様な社会は成り立つのではないでしょうか。
女性が女性として語り合い、互いの経験を共有することさえ難しくなる社会は、本当に「平等」と呼べるのでしょうか。いま私たちが問われているのは、その基本的な問いなのかもしれません。














