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【見て見ぬフリをされてきた無数のこと】 第6回 望む限りすべてを市場に並べよ

柊佐和2026.03.08

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望むとはどういうことか?それは誰の望みなのか?

セックスワークが当たり前の世界において、すべての女児はセックスワーカー予備役だ。
これは誇張でもなんでもない。
それが普通の仕事であるというならば、当然、否応なく、セックスワークはすべての子どもが将来選択するであろう職業のひとつに含まれる。

一体、セックスワークを擁護する者たちは、それをどのように社会に実装し、子どもたちに伝えるつもりなのだろう?

高校や大学の就職課に、ソープランドやデリバリーヘルスの求人票が堂々と並ぶのだろうか?
企業説明会で、性風俗店の運営会社やスカウト業者が、学生たち相手に仕事内容を説明するのだろうか?
小学生が、キッザニアでセックスワーカー体験できる社会が望ましいというのだろうか?
子ども相手に「安全な素股のやり方」とか「お客さんが喜ぶフェラチオの方法」なんかをレクチャーする社会が、理想なのだろうか?

こういった列挙を露悪的で偏向した妄想だと感じ、憤るひともいるかもしれない。
けれど、普通化とはつまりそういうことだろう?

セックスワークを擁護し、セックスワークの普通化を望む者たちに向かって「だったらまず、あなたがやってみたら?」と言うと、たいていは怒り出す。
なんて失礼なことを!とか(普通の仕事なのに?)。
わたしはそういうの向いてないから…などと言って、はぐらかす者もいる。

セックスワークを擁護する者も、それが普通の仕事などではないということは、重々理解しているのではないだろうか?

客の男が気持ちよく射精するために、セックスワーカーは自分のすべてを差し出すことになる。数分前に会ったばかりの男と裸で抱き合い、性的な親密さを演じ、相手の欲望を満たす人形であることを引き受けさせられる。

何度でも、何度でも言おう。
性売買の現場でわたしは、結膜炎に、水虫に、歯周病に、カンジダに、クラミジアに、淋病に、梅毒に、HPVに感染させられた。
何度となく外陰部に傷を負い、粘膜が傷つき、乳首がすり切れて激痛が走り、肛門に裂傷を負い、子宮頚部を切除した。

それは別に、わたしがそうなりたいと望んだからではない。
自然の加齢や不慮の事故によってそうなったのでもない。
そのような結果へとわたしを押し流す潮流があり、その流れをわたし自身が「望んだ」ことにされてしまったのだ。

こうした話をすると、必ずといっていいほど次のような反論が飛んでくる。
「コンビニやファストフードの店員だって、笑顔の接客を強制されている。セックスワークも同じ労働にすぎない」

コンビニ店員は裸なのか?
ファストフードの店員は、客の性器を素手で触るのか?
自分のプライベートパーツを“あえて無防備に触らせることが主たる業務”の仕事が、性売買以外にもあるのだろうか?

そしてさらに、この社会は言うのだ。
互いに望むならば、それを満たす取引が成立していい。
誰であれ、なんであれ、望むままに売り買いしてかまわない。
市場は単に売り手と買い手が出会う場にすぎない。
望む限りすべてを市場に並べよ。
と。

それらは、すばらしい自由の謳歌であるように語られる。
まるで、すべてに優先する真理であるかのように語られる。

けれど、それらは本当に真理だろうか?
「望む」とは、一体どういうことだろうか?

セックスワークを擁護する議論は、しばしば売る側の「同意」「自己決定」「自由意志」の問題として語られる。
売りたいと望む者がいるのだ、本人がそう望んだのだ、それを選んだのだ、その望みと選択はなによりも尊重されるべきなのだ。と。

しかし、その「望み」の内訳や機序は、ほとんど検討されない。
セックスワークを擁護する文脈においては、捨て置かれるといってもいいだろう。

ほかに有効な選択肢がなかった。
自分が直接背負うことになるリスクを知ることができなかった。
生存のためだった。混乱した愛着心をなだめるためだった。効率的な自傷のためだった。

そういう経緯を根こそぎ削り取られ「本人が望み、選択した」とされてしまうのだ。
もちろん、いま挙げたもの以外であっても。

性売買の構造はこうだ。
他者を性的に侵害することを欲望する者がいる。
その欲望を満たすための市場が作られる。
その市場で利益を得る者が増える。
市場の拡大はさらに多くの売り物を必要とし、“売らざるを得ない者”を生み出すために、周辺へと影響を拡大させていく。
売らざるを得ない者は選択肢を奪われ、市場へと押し流されていく。

しかしこの構造はたいていの場合、逆転して語られる。

まるで、はじめから自分の身体と尊厳を売りたくて仕方のない女性がいるかのように。
買い手である男はたまたま出会った“売りたい女性”を、仕方なく、しぶしぶ、善意で、買ってやったとでもいうかのように。

「売る女がいるから買うんだ」
「供給があるから買うだけだ」
そのような騙りが常態化した社会では、“買いたい男”と“仲介・管理したい者”は、その姿を消すことに成功する。
この転倒とすり替えを可能にしているものこそ、「自由」という名で語られ、その存在を透明化された、市場の権力である。

市場そのものと市場の営為によって利益を受ける者たちは透明化され、店先に並べられた女性たちは、女性であるうえに品物であるがゆえに注目を浴び、市場を形作る欲望すべての責任を負わされる。
構造の問題であるはずなのに、“売らざるを得ない女性”の、個人の欲望と選択の問題にされてしまう。
その巧妙な転倒とすり替えによって利益を得る社会は、くり返し言うのだ。

望む限りすべてを市場に並べよ、と。

性売買は、この社会に独立してポツンと存在しているわけではない。
むしろ、この世にあまねく浸透した女性差別・女性蔑視と歯車のように噛み合い、巨大な円環構造を形成している。
その円環の陳列台に並べる品物として、すべての女性は性的に評価・消費される。
性売買は、そのような女性の性的客体化が、もっとも露骨な形で現れる場所なのだ。

性売買という歯車をもってして回る社会では、常に新しい“売らざるを得ない女性”が必要とされる。その営為を放置する限り、その社会に生まれる女児はみんな、やがて市場に並べられる存在として生まれ、育てられることになる。
さらには買い手の需要がある限り、仲介する者は別の土地へ“商品”の仕入れにいくことも厭わない。そしてその商品は、この社会の“買いたい男”によって消費される。
女性と女児は市場の循環の中で移送され、並べられ、売られる。

セックスワークが当たり前の世界において、女性は品物であって、人間ではないのだ。

セックスワークが当たり前の世界において、すべての女児はセックスワーカー予備役だ。
最初に提示したこの命題を、ばかげた妄言だと笑い飛ばすことが、今のわたしたちにできるだろうか?

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